この詩ははじめ集会などで朗読されるのみであった[3]が、翌1888年にフランス労働党リール支部勤労者音楽隊(La Lyre des Travailleurs)の依頼で、その団員だったピエール・ドジェーテル(Pierre Degeyter; 1848 - 1932)が「L'Internationale」に曲をつけた[2][3]。ピエールはリールの音楽院で音楽を学んだ人物で、作曲のほか演奏も担当した[2]。ピエールの曲にのせた「L'Internationale」の初演奏は1888年7月とされている[2]。ラ・ヴィニェット街のキャバレーでピエールが労働者に歌い聞かせたこの曲は、リールの労働者の間で歌われるうちにノール県にも伝わり、1895年にはゲート派の組合大会、1899年にはフランス労働党大会でも歌われ、フランス全土へと広がっていった[3][4]。そして、大会に臨席した外国代表らによって、各国に広まっていった[4]。 作曲者がピエール・ドジェーテルである(つまり、彼が共産主義者である)と知れると社会生活に悪影響が及ぶため、作曲者は単に「ドジェーテル」と姓だけがクレジットされ、個人が特定できないように名は伏せられていた[2]。このため、のちに著作権権利者を巡って争いが起きることになった[2]。 労働者合唱団の創設者のひとりで、リール市長やフランスの国会議員を歴任したギュスターヴ・ドゥロリ
曲の権利を巡る騒動
その頃ピエールはリールを不在にしており、一連の出来事を知らないままでいた[2]。リールに戻って曲の権利が失われていることを知ると、ピエールは自分が作曲者であり、曲の権利を有するとして訴え出た[注 1][2]。この訴えが退けられると、ピエールは1904年に本格的な法廷闘争を始めた[2]。
裁判では双方が作曲者であると主張した[2]。ドジェーテル家の家族が証人として出廷したが、家族のあいだでも意見が分かれた[2]。10年の係争の末に、ピエールは敗訴した[2]。
1914年の夏に第一次世界大戦が始まり、大きな国難に接したアドルフは、実は嘘をついていたという「告白文」を認めて1915年に送付した[2]。