インターナショナル_(歌)
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ドゥロリの主張は認められ、のちにドゥロリとフランス社会党が権利を分け合うようになった[2]

その頃ピエールはリールを不在にしており、一連の出来事を知らないままでいた[2]。リールに戻って曲の権利が失われていることを知ると、ピエールは自分が作曲者であり、曲の権利を有するとして訴え出た[注 1][2]。この訴えが退けられると、ピエールは1904年に本格的な法廷闘争を始めた[2]

裁判では双方が作曲者であると主張した[2]。ドジェーテル家の家族が証人として出廷したが、家族のあいだでも意見が分かれた[2]。10年の係争の末に、ピエールは敗訴した[2]

1914年の夏に第一次世界大戦が始まり、大きな国難に接したアドルフは、実は嘘をついていたという「告白文」を認めて1915年に送付した[2]。この告白に拠れば、当時の市長だったドゥロリに逆らっては町で生きてゆくことができなくなると恐れ、ドゥロリに言われるがままになっていたということだった[2]

この告白文によって、戦後の1922年に、ピエールが正当な作曲者と認められた[2]。ピエールは共産主義活動のシンボルになり、共産党大会ではピエールの指揮で「L'Internationale」が演奏された[2]。一方、この頃共産主義者と社会主義者は仲違いをするようになっており、社会主義者の出版物では引き続き「L'Internationale」の作曲者はアドルフ・ドジェーテルと宣伝された[2]
「インターナショナル」の広がり

「L'Internationale」が、広く注目をあつめるようになったのは、1896年にリールで行われた労働者の大会で演奏されたときである[2]。この大会には国外からも参加者があり、彼らを通じて広がっていった[2]1902年にはロシア語に翻訳された[6][3]

1910年には、コペンハーゲンデンマーク)で社会主義者の象徴として歌われたという記録がある[2]。オリジナルのフランス語版は6番までの歌詞があったが、他言語に翻訳される際にはいくつか割愛され、2番か3番あたりまでになっている場合がある[5]。1900年の英訳版は5番までであり、アメリカやカナダではこれが有名である[5]。イギリス、アイルランド、オーストラリアなどでは6番までの英訳歌詞が知られている[5]

1917年には、ロシア社会主義革命ロシア革命)が成功してロシア・ソビエト社会主義共和国が誕生すると、1918年に国歌に採用された[1][7][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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