インターナショナル_(歌)
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作曲者がピエール・ドジェーテルである(つまり、彼が共産主義者である)と知れると社会生活に悪影響が及ぶため、作曲者は単に「ドジェーテル」と姓だけがクレジットされ、個人が特定できないように名は伏せられていた[2]。このため、のちに著作権権利者を巡って争いが起きることになった[2]

労働者合唱団の創設者のひとりで、リール市長やフランスの国会議員を歴任したギュスターヴ・ドゥロリ(フランス語版)という人物が、「L'Internationale」の詩・曲の権利を有すると主張するようになった[2]。「詩」の権利はもともとポティエの未亡人にあったが、これを別の人物に売り渡し、これをさらにドゥロリが買収した[2]。「曲」は、ピエール・ドジェーテルの兄弟のアドルフ・ドジェーテル(Adolphe Degeyter)が作曲したとし、ドゥロリがアドルフから権利を譲り受けたと主張した[2]。ドゥロリの主張は認められ、のちにドゥロリとフランス社会党が権利を分け合うようになった[2]

その頃ピエールはリールを不在にしており、一連の出来事を知らないままでいた[2]。リールに戻って曲の権利が失われていることを知ると、ピエールは自分が作曲者であり、曲の権利を有するとして訴え出た[注 1][2]。この訴えが退けられると、ピエールは1904年に本格的な法廷闘争を始めた[2]

裁判では双方が作曲者であると主張した[2]。ドジェーテル家の家族が証人として出廷したが、家族のあいだでも意見が分かれた[2]。10年の係争の末に、ピエールは敗訴した[2]

1914年の夏に第一次世界大戦が始まり、大きな国難に接したアドルフは、実は嘘をついていたという「告白文」を認めて1915年に送付した[2]。この告白に拠れば、当時の市長だったドゥロリに逆らっては町で生きてゆくことができなくなると恐れ、ドゥロリに言われるがままになっていたということだった[2]

この告白文によって、戦後の1922年に、ピエールが正当な作曲者と認められた[2]。ピエールは共産主義活動のシンボルになり、共産党大会ではピエールの指揮で「L'Internationale」が演奏された[2]。一方、この頃共産主義者と社会主義者は仲違いをするようになっており、社会主義者の出版物では引き続き「L'Internationale」の作曲者はアドルフ・ドジェーテルと宣伝された[2]
「インターナショナル」の広がり

「L'Internationale」が、広く注目をあつめるようになったのは、1896年にリールで行われた労働者の大会で演奏されたときである[2]。この大会には国外からも参加者があり、彼らを通じて広がっていった[2]1902年にはロシア語に翻訳された[6][3]

1910年には、コペンハーゲンデンマーク)で社会主義者の象徴として歌われたという記録がある[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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