イングリッド・バーグマン
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『カサブランカ』の舞台はナチスの影響力が及ばない中立地帯であるフランス領モロッコのカサブランカで、バーグマンはポール・ヘンリードが演じた反ナチス地下組織の指導者ヴィクター・ラズローの妻である美しいノルウェー人女性イルザ役を演じた[6]。世評とは裏腹にバーグマン自身は『カサブランカ』に必ずしも満足しておらず「私は多くの映画に出演し、なかには『カサブランカ』よりも重要な役も演じてきたつもりです。しかし人々が話題にしたがるのはボガートと共演した映画のことばかりなのです[11] と語ったこともある。しかしながら後にバーグマンは「すでに『カサブランカ』は独り歩きしている映画なのでしょう。人々を惹き付ける不思議な魅力を持つ作品で、映画に求められていた想いを十分に満足させることができる作品といえます」とも語っている[6]:88。ただし晩年には、「こんなに良い映画だったんですね」と言っている[12]
『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)

バーグマンは1943年に、自身初のカラー映画作品となる『誰が為に鐘は鳴る』にマリア役で出演し、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。『誰が為に鐘は鳴る』は、アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイの同名小説『誰がために鐘は鳴る』を原作とした映画である。原作の映画化権がパラマウント映画に売却されたときに、原作者のヘミングウェイは「この役を演じるのはバーグマン以外にありえない」と言い切った。ヘミングウェイはバーグマンと面識はなかったが、アメリカでの初主演作『別離』でバーグマンのことを知っていたのである。数週間後この二人は顔を合わせ、バーグマンのことを理解したヘミングウェイは「貴女はマリアだ!」と叫んだ[7]
『ガス燈』(1944年)ガス燈』(1944年)の宣伝用写真

バーグマンは1944年に出演した『ガス燈』で初のアカデミー賞となる主演女優賞を受賞した。『ガス燈』ではシャルル・ボワイエと共演し、監督のジョージ・キューカーはバーグマンに「狂気へと堕ちていく人妻」という演技を求めた。映画評論家トムソンはこの『ガス燈』がバーグマンの「ハリウッドでの全盛期だった」としている[10]:77。バーグマンは1945年に『聖メリーの鐘』にビング・クロスビーの相手役として出演し、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。
ヒッチコック映画汚名』(1946年)

バーグマンは『白い恐怖』(1945年)、『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)と、3本のアルフレッド・ヒッチコックの監督映画作品に出演している。これらの映画のうち史劇の『山羊座のもとに』だけがカラー作品だが、『白い恐怖』や『汚名』ほどには評価の高い作品とはいえない。また、バーグマンは1940年代に俳優、演出家マイケル・チェーホフのもとで演技を学んでいた。チェーホフはバーグマンが主演した『白い恐怖』にブルロフ役で出演しており、これがチェーホフ唯一のアカデミー賞のノミネートとなっている[13]
『ジャンヌ・ダーク』(1948年)

バーグマンは1948年に公開された『ジャンヌ・ダーク』でもアカデミー主演女優賞にノミネートされた。この作品はマクスウェル・アンダーソンの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』を原作としたもので、ウォルター・ウェンジャー製作、ヴィクター・フレミング監督、RKO配給の独立系映画作品である。バーグマンがこの映画で主役を射止めたのは、以前に戯曲版の『ロレーヌのジャンヌ』をブロードウェイの舞台で演じていたことも理由の一つとしてあげることができる。しかしながら『ジャンヌ・ダーク』は興行的成功を収めたとはいえない。この作品の公開中に、バーグマンとイタリア人映画監督ロベルト・ロッセリーニとの不倫スキャンダルが明るみに出てしまったことにもその一因があった。さらに映画関係者からの評価もよくなく、複数のアカデミー賞にノミネートされ、撮影賞衣装デザイン賞を受賞したが、最優秀作品賞を受賞することはできなかった。公開時にはオリジナルのストーリーから45分がカットされていたが、1998年にもとの長さに復元され、2004年にはこの完全版がDVDでリリースされている。

ハリウッドでのバーグマンは映画だけでなく舞台にも出演していた。『リリオム』、『アンナ・クリスティ』(en:Anna Christie)、そして『ロレーヌのジャンヌ』である。『ロレーヌのジャンヌ』のプロモーションのためにワシントンD.C.で開催されたプレス・カンファレンスの場で、バーグマンは自身が出演していた劇場で直接目にした、人種差別事件を非難したことがある。この出来事は大きな注目を集め、嫌がらせの手紙がバーグマンに届いたこともあった。またバーグマンは第二次世界大戦中にアラスカのアメリカ陸軍を慰問したことがある。さらにバーグマンは軍の慰問でヨーロッパにも渡り、戦争が引き起こす荒廃を目の当たりにした。カメラマンのロバート・キャパと知り合ったのもこの時期のことで、二人は一時期不倫関係にあったともいわれている[14]
私生活

バーグマンは1937年に21歳で歯科医のペッテル・アロン・リンドストロームと結婚し、翌1938年9月20日には娘のピアが生まれた。『別離』の完成後にいったんスウェーデンに戻っていたバーグマンだったが、1940年に再びアメリカへ渡り、ブロードウェイで舞台女優を続けてハリウッドでの映画出演に備えていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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