バーグマンは1943年に、自身初のカラー映画作品となる『誰が為に鐘は鳴る』にマリア役で出演し、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。『誰が為に鐘は鳴る』は、アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイの同名小説『誰がために鐘は鳴る』を原作とした映画である。原作の映画化権がパラマウント映画に売却されたときに、原作者のヘミングウェイは「この役を演じるのはバーグマン以外にありえない」と言い切った。ヘミングウェイはバーグマンと面識はなかったが、アメリカでの初主演作『別離』でバーグマンのことを知っていたのである。数週間後この二人は顔を合わせ、バーグマンのことを理解したヘミングウェイは「貴女はマリアだ!」と叫んだ[7]。
『ガス燈』(1944年)『ガス燈』(1944年)の宣伝用写真
バーグマンは1944年に出演した『ガス燈』で初のアカデミー賞となる主演女優賞を受賞した。『ガス燈』ではシャルル・ボワイエと共演し、監督のジョージ・キューカーはバーグマンに「狂気へと堕ちていく人妻」という演技を求めた。映画評論家トムソンはこの『ガス燈』がバーグマンの「ハリウッドでの全盛期だった」としている[10]:77。バーグマンは1945年に『聖メリーの鐘』にビング・クロスビーの相手役として出演し、3回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。
ヒッチコック映画『汚名』(1946年)
バーグマンは『白い恐怖』(1945年)、『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)と、3本のアルフレッド・ヒッチコックの監督映画作品に出演している。これらの映画のうち史劇の『山羊座のもとに』だけがカラー作品だが、『白い恐怖』や『汚名』ほどには評価の高い作品とはいえない。また、バーグマンは1940年代に俳優、演出家マイケル・チェーホフのもとで演技を学んでいた。チェーホフはバーグマンが主演した『白い恐怖』にブルロフ役で出演しており、これがチェーホフ唯一のアカデミー賞のノミネートとなっている[13]。 バーグマンは1948年に公開された『ジャンヌ・ダーク』でもアカデミー主演女優賞にノミネートされた。この作品はマクスウェル・アンダーソンの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』を原作としたもので、ウォルター・ウェンジャー製作、ヴィクター・フレミング監督、RKO配給の独立系映画作品である。バーグマンがこの映画で主役を射止めたのは、以前に戯曲版の『ロレーヌのジャンヌ』をブロードウェイの舞台で演じていたことも理由の一つとしてあげることができる。しかしながら『ジャンヌ・ダーク』は興行的成功を収めたとはいえない。この作品の公開中に、バーグマンとイタリア人映画監督ロベルト・ロッセリーニとの不倫スキャンダルが明るみに出てしまったことにもその一因があった。さらに映画関係者からの評価もよくなく、複数のアカデミー賞にノミネートされ、撮影賞と衣装デザイン賞を受賞したが、最優秀作品賞を受賞することはできなかった。公開時にはオリジナルのストーリーから45分がカットされていたが、1998年にもとの長さに復元され、2004年にはこの完全版がDVDでリリースされている。 ハリウッドでのバーグマンは映画だけでなく舞台にも出演していた。『リリオム』、『アンナ・クリスティ』(en:Anna Christie バーグマンは1937年に21歳で歯科医のペッテル・アロン・リンドストロームと結婚し、翌1938年9月20日には娘のピアが生まれた。『別離』の完成後にいったんスウェーデンに戻っていたバーグマンだったが、1940年に再びアメリカへ渡り、ブロードウェイで舞台女優を続けてハリウッドでの映画出演に備えていた。1941年には夫リンドストロームと娘ピアがアメリカを訪れ、ニューヨークのロチェスターに滞在している。このアメリカ滞在中にリンドストロームはロチェスター大学で薬学と外科学を学び学位を取得した。バーグマンはニューヨークに小さな家を借りて脳神経外科の研修医に転じた夫のリンドストロームと娘を住まわせ、撮影の合間を見つけてはニューヨークを訪れ、数日間から数ヶ月間にわたって家族との時間を持っていた。 『ライフ』誌の記事では「リンドストロームは自身こそが家長であり、バーグマンも喜んでそのことを認めていると考えていた」とし、リンドストロームが「ハリウッドで飾りたてられた人工的な美女と関連性を持って見られることを毛嫌いしていた」ために、バーグマンは女優としての生活と私生活とをはっきりと分けていると断言していたと書かれている。リンドストロームは後にニューヨークからサンフランシスコへと居を移し、当地の私立病院でインターンシップを終えている。そしてバーグマンも映画出演の合間にサンフランシスコを訪れて、家族と共に過ごす生活を続けた[7]。 リンドストロームは後年、超音波を使い出血しにくい手術の術式を考案し高名な脳外科医となり、アメリカ各地の病院に勤務を続ける傍ら、複数の大学で教鞭を取りユタ大学の教授を務めた。
『ジャンヌ・ダーク』(1948年)
私生活