イングリッド・バーグマン
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アカデミー賞を3回、エミー賞を2回、トニー賞演劇主演女優賞の受賞経験があり、AFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)選定の「映画スターベスト100」の女優部門では第4位となっている[3]

バーグマンはアメリカで女優として成功をおさめる以前から、スウェーデンでは名を知られた女優だった。バーグマンがアメリカ映画に初出演したのは、スウェーデン映画の『間奏曲』をリメイクした『別離』(1939年)である。その際立った美貌と知性でアメリカ映画に「北欧からの瑞々しい息吹」を吹き込んだバーグマンは、すぐさま「アメリカ人女性の理想」となりハリウッドを代表する女優の一人となったと『ポピュラーカルチャー百科事典』(en:St. James Encyclopedia of Popular Culture)に記されている[4]

映画監督ヴィクター・フレミングがリメイクした映画『ジェキル博士とハイド氏』(1941年)に出演したバーグマンは、後に自身をハリウッドへ招く映画プロデューサーデヴィッド・O・セルズニックに認められた。セルズニックはバーグマンのことを、今までともに仕事をしてきた中で「もっとも完成された誠実な女優」と評価している。セルズニックはバーグマンに7年間の出演契約を提示し、その後の女優活動をプロデューサーとして支えていくことになる。バーグマンがセルズニックとは無関係に出演した映画には『カサブランカ』(1942年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ガス燈』(1944年)、『聖メリーの鐘』(1945年)『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)があり、独立系映画としては『ジャンヌ・ダーク』(1948年)がある。

ハリウッド進出以来、10年間にわたってアメリカでスター女優の地位を守り続けたバーグマンは、1950年にロベルト・ロッセリーニが監督するイタリア映画『ストロンボリ』に主演した。この作品がきっかけとなり、バーグマンとロッセリーニはともに既婚者であったにもかかわらず、不倫関係を持つようになる。この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。1956年の『追想』でハリウッドに復帰したバーグマンは、この映画でアカデミー主演女優賞を受賞するとともに、旧来のファンもバーグマンを許したといわれている。バーグマンに関する私生活や映画関連の文献は、ウェズリアン大学のシネマ・アーカイブが多く所蔵している[5]
前半生(1915年 - 1938年)14歳のバーグマン。

バーグマンは1915年8月29日にスウェーデンのストックホルムで生まれ、スウェーデン王女イングリッド・アヴ・スヴェーリエにちなんでイングリッドと名付けられた。 Ingrid Bergman はスウェーデン語ではインリド・ベリマン [????r?d ?barjman] [2] と発音される。 父親はスウェーデン人ユタス・ベリマンで、母親はドイツ人フリーデル・アドラー・ベリマンである[6]。バーグマンは3歳のときに母親を、13歳のときに芸術家・カメラマンだった父親を失った。生前の父親はバーグマンがオペラ歌手になることを望んでいたため、バーグマンは3年間声楽を学んでいる。しかしながら「最初から女優の道に進むことを夢見ていた」バーグマンは、誰もいない父親の写真スタジオで亡き母のドレスを身にまとって一人芝居を演じることもあった。バーグマンの父親は死去するまで、誕生日には毎年バーグマンの写真を撮影していた[7]バーグマンが初めて出演した映画『ムンクブローの伯爵』より。1934年に撮られた写真で、当時のバーグマンは19歳だった。

父親の死後バーグマンは叔母に引取られたが、この叔母も心臓合併症のために6カ月後に死去してしまう。そしてバーグマンは5人の子持ちの叔母フルダと叔父オットー夫妻の家に身を寄せた。バーグマンにはエルザ・アドラーという名前の叔母もおり、この叔母が11歳のバーグマンに生母フリーデルにはおそらく「ユダヤ人の血が混じっている」ことを最初に告げた人物である。ただし父ユストは結婚前からこのことを知っていた。エルザは、バーグマンがもしこの血筋を他人に話すようなことがあれば「ちょっと厄介なことになるかもしれない」と忠告している[6]:294。

バーグマンは17歳のときに、ストックホルムの王立ドラマ劇場 (en:Royal Dramatic Theatre) の役者になるためのオーディション参加を一度だけ許可された[6]:30?31。バーグマンはこのときのオーディションの様子を次のように回想している。

オーディションが終わってステージを去るときの私は、自分の葬式に参列しているような心境でした。女優になるという夢が破れ、心は張り裂けんばかり。私の台詞回しも芝居もそれはひどいものだったのです。

しかしながら、このバーグマンの落胆は尚早だった。後にこのオーディションの審査員の一人がバーグマンのもとを訪れ、審査員たちがバーグマンの演技をどのように評価したのかを伝えた。

私たちは貴女の一見傍若無人にも見える落ち着き振りに感銘を受けました。貴女個人も話しぶりも素晴らしい。これ以上何十人ものオーディションを実施するのは時間の無駄です。貴女には天賦の才があります。将来素晴らしい女優になることでしょう[6]:31?33。

オーディションに合格したバーグマンは国からの奨学金を受け、王立ドラマ劇場付属の演劇学校へ入学した。この演劇学校は、数年前までグレタ・ガルボが同じような奨学金を得て学んでいた学校でもあった。バーグマンは入学した数カ月後に、ジークフリード・シーウェルツの戯曲『犯罪 (Ett Brott)』に出演している。しかしながらこのバーグマンの行動は、演劇学校の「慣例とは全く相容れない」ものだった。この演劇学校では、少なくとも3年間演技を学んでからでないと外部の作品に出演してはならないという不文律があったためである[6]:33。バーグマンは最初の夏休みにも映画スタジオからの仕事を受けた。そして一年後に、映画女優に専念するために通っていた演劇学校を退学した。退学後にバーグマンが得た最初の出演作は1935年に公開された『ムンクブローの伯爵』である(1932年の映画『Landskamp』でエキストラとしての出演経験はあった)。その後バーグマンは、1941年にジョーン・クロフォード主演で『女の顔』という題名でリメイクされることになる『女の顔 (sv:En kvinnas ansikte)』(1938年)の主役アンナ・ホルムを始め、12本のスウェーデン映画に出演したほか、ドイツ映画の『4人の仲間 (de:Die 4 Gesellen)』(1938年)にも出演している。
ハリウッド時代、1939年 - 1949年
『別離』(1939年)

バーグマンが初めてアメリカに渡ったのは1939年のことで、アメリカ映画『別離』(1939年)に出演するためだった。『別離』はバーグマンが主演した1936年のスウェーデン映画『間奏曲』の英語版リメイク作品で、ハリウッドの映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックが、バーグマンをハリウッドに招いて製作した映画である。この映画でのバーグマンの役は、レスリー・ハワード演じる名ヴァイオリニストのピアノ伴奏者で、妻子あるこのヴァイオリニストとの恋愛関係に落ちていくというものだった。自身が英語をろくに話すことができないことと、アメリカの観客からの受けも不明瞭だったため、バーグマンはアメリカで出演する映画は『別離』が最初で最後で、すぐにスウェーデンに戻るものと思い込んでいた。バーグマンの夫で歯科医のペッテル・リンドストロームはスウェーデンに残っており、1938年に生まれた一人娘であるピアとともにバーグマンの帰国を待っていたという背景もあった[6]:63。

『別離』の撮影のためにバーグマンは1939年5月6日にロサンゼルスへ到着し、宿泊先が見つかるまでセルズニックの家に滞在した。当時まだ子供だったセルズニックの息子ダニーは、セルズニックがバーグマンについて「英語が話せない、背が高すぎる、名前があまりにドイツ風だし眉も太すぎる」という欠点を挙げていたと語っている。しかしながら、このようなセルズニックの懸念は外れ、バーグマンは外見も名前も変えることなく、すぐにアメリカの観客たちに受け入れられた[6]:6。『ライフ』誌はバーグマンの特集記事で「彼(セルズニック)が彼女(バーグマン)を成功へと導いた」と指摘している。セルズニックはバーグマンが、どこの誰だか分からなくなるくらいに厚化粧を施すハリウッドのメイクアップアーティストたちに恐怖心を抱いていることを知っており、バーグマンのことを「そっとしておくように指示」した。またセルズニックはバーグマンが持つ天性の美貌が「人工的に飾り立てた」ハリウッドの女優たちに勝るとも劣らないことも確信していた[7]。当時のセルズニックは『別離』と並行して『風と共に去りぬ』の製作も手がけていた。このときにセルズニックは広報担当のウィリアム・ハーバートに、バーグマンの印象を綴った書簡を送っている。


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