イングランド
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国際電話番号+44
1少数言語としてコーンウォール語も存在する。コーンウォール語でのイングランドの呼称は「Pow Sows」。
2839年エグバートが初めてイングランドを統一した君主だが、肩書きはイングランド王ではなく、ブレトワルダ(覇王)であった。学校の歴史では、1066年ウィリアム征服王とされている。

イングランド(: England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「」(: country)の一つである。人口は連合王国の83%以上[1]、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海アイリッシュ海大西洋イギリス海峡に面している。
名称

イングランドの名は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一支族で、ブリテン島南部にサクソン人と共に来航し定住した「アングル人の土地」を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。

日本においては「イングランド」または「イングランドおよびウェールズ」を指して、しばしば「イギリス」または「英国」という呼び方が用いられることがあり、このうち「英国」と言う場合は連合王国全体ではなく狭義に「イングランド」を指す意味で使用される場合がある(そもそも、日本の慣用である「イギリス」自体がイングランドのポルトガル語読みに由来する)。

又、日本語に限らず、様々な言語で文脈によってはイングランドを連合王国全体を指して用いることがあるが、これはイングランド以外の実情を考慮していないものであり、ポリティカル・コレクトネスに則していないといえる。従って、イングランド外(特にスコットランド)の出身者に対して「English(イングランド人)」という呼称を用いる事は間違いであり、民族感情的な反感を生む場合もあるので注意を要する。
歴史詳細は「イングランドの歴史」を参照
古代詳細は「ブリテンの先史時代」および「ブリタンニア」を参照
中世「アンゲルン半島」および「ブルトン人」も参照

イングランドの名はフランス語で「Angleterre」と言うように「アングル人の土地」という意味である。ローマブリタニアからローマ軍団が引き上げた後、ゲルマン系アングロ・サクソン人が侵入し、ケルトブリトン人を征服または追放してアングロ・サクソン七王国が成立した。アングロ・サクソンの諸王国はデーン人を中心とするヴァイキングの侵入によって壊滅的な打撃を受けたが、878年ウェセックスアルフレッドがエディントンの戦い(英語版)(古英語: Battle of Ethandun)でデーン人に打ち勝ってウェドモーアの和議を締結し、デーンロー地方を除くイングランド南部を統一した。886年にアルフレッドはロンドンを奪回。エドガー平和王の時代に北部も統一され、現在のイングランドとほぼ同じ領域となる。

927年アゼルスタンイングランド王国を建国。一時イングランド王国はデンマーククヌーズ(カヌート)に征服されるが(デーン朝)、その後再びアングロ・サクソンの王家(ウェセックス朝)が復興する。1066年ノルマンディー公ギヨーム2世に征服され、ギヨームがウィリアム1世(征服王)として即位、ノルマン朝が開かれた。ノルマン朝がスコットランドへのノルマン・コンクエストを開始し、アングロ・サクソン系の支配者層はほぼ一掃され、フランス語国王貴族の公用語となった。プランタジネット朝は英仏に広大な領土をもつ「アンジュー帝国」となるが、この時期になるとフランス系のイングランド諸領主も次第にイングランドに定着し、イングランド人としてのアイデンティティを持ちはじめた。スコットランド独立戦争は、13世紀から14世紀にかけて長期にわたりイングランド軍が北部を攻撃したが、1314年ロバート・ブルースがスコットランドの大部分を再征服し、スコットランドの独立を保った(バノックバーンの戦い)。

百年戦争1337年 - 1453年)によってフランス領土はほぼ完全に失われた。薔薇戦争1455年 ? 1485年)の際、1485年ボズワースの戦いで勝利したヘンリー7世が、ウェールズ人のウェールズ大公の血統から出てイングランド王家に収まった(テューダー朝)。1536年のウェールズ法諸法(英語版)によるウェールズ統合により、単一国家「イングランドおよびウェールズ」とし、この王朝の家臣団ではウェールズ人が重要な地位を占めた。こうした経緯から、ウェールズ人は同王朝のヘンリー8世からエリザベス1世までの国王が推進したイングランド国教会創設などに協力的な姿勢を見せることになったのである。
近世

1603年以来、ジェームズ1世がイングランドとスコットランドの両方を統治していた。スコットランドの宗教改革清教徒革命主教戦争三王国戦争(スコットランド内戦(英語版)、イングランド内戦、アイルランド同盟戦争(英語版)(アイルランド反乱(英語版)、アイルランド侵略))、イングランド共和国の成立、イングランド王政復古)。殺戮時代にスコットランドを弾圧。大同盟戦争1688年 - 1697年)、名誉革命1688年 - 1689年)。ウィリアマイト戦争1689年 - 1691年)でアイルランドを弾圧。1707年にイングランドとスコットランドが連合してグレートブリテン王国を形成し、合同法によって両国の議会は統合された。ジャコバイトの反乱(1715年の反乱(英語版)、1745年の反乱(英語版))。
近代


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