イングランド銀行
[Wikipedia|▼Menu]
国際金融家ロスチャイルド1816年のイングランド銀行と王立証券取引所

1807年奴隷制度廃止運動の高まりにより大英帝国内での奴隷貿易が禁止される。バルト海貿易で富を築き、当銀行理事を務めたジョン・ソーントンは、息子ヘンリや総裁を務めたサミュエルらとともに奴隷貿易廃止法案に尽力していた[10]。この禁止はのちの帝国経済への長期的な打撃となり、1815年の恐慌を起こした。

1816年、イングランド銀行は諸国に先駆けて銀本位制から金本位制に切り替えた。1816年から1817年には兌換が部分的に再開されたが[注釈 10]1819年恐慌も発生した。

1823年に兌換は全面的に再開され、同年と1825年には代理商取引法が制定されて契約を促したものの、取引所の利害関係も混乱させた。

このころ外債が洪水のように契約されており、男爵位を得たロスチャイルドは請負人として最も活躍した [注釈 11] [14][注釈 12]。ロスチャイルドはロンドンの投資家の関心を呼ぶために、スターリング・ポンド建て外債の利率を定めていた。

6月、国庫委員会の議事録にネイサン・メイアー・ロスチャイルドが登場する[15]。同年3月すでに、フランスが総額1億2000万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシンジケート団(以下、シ団)を組織し引受けた。アッシニアの担保に財産を没収された教会・貴族の反発があるも、フランス政府は低利借り換えを画策。実現に向けて公債相場を維持するため[16]、ネイサンは翌年5月イングランド銀行から1年間金100万ポンドの保証を受ける。12月1日に保証額中30-50万ポンドを持ち出し[15]、担保としてイギリスの「整理公債」を預託、持ち出した金塊はフランス銀行に預け入れた。結局、利率が低すぎてシ団は半壊。ロスチャイルドは残り、逆に力を誇示することになった[16]

イングランド銀行から始まった1825年の恐慌(英語版)もまた欧州に波及した。ラテンアメリカ投機の一部での株価暴落が引き金であった[注釈 13]。フランス銀行に正貨の供給を受け[注釈 14]、破綻寸前で踏みとどまったが[注釈 15]、この惨事は社会運動に発展し、紡績工場法が修正されたり、労働組合が承認されたりした。また、銀行券、特に小額紙券の流通量が著しく減らされることとなった[注釈 16]
国際流動性に向かう投機

1833年の新特許法でイングランド銀行券が法貨となる。同年、クラウン・エージェンツ[注釈 17] が政府により創設される。

1839年、マンチェスター商業会議所が、それまでの3年間における金利の恣意的な変更が為替相場を乱高下させたと主張[19]。勢いづいていたチャーティズムを政府は翌年4月にかけ弾圧。また、この年に国内電信が敷設される。

1844年、改正されたピール銀行条例(当時の呼称は「英蘭銀行条例」、イングランド銀行条例)により中央銀行となる[注釈 18]鉄道狂時代が続く。

1851年、ロスチャイルド商会が貴金属精錬所を設立。この年、ドーバー海峡横断ケーブル開通。翌年にロスチャイルドの精錬所はイングランド銀行で2番目の公認精錬所となる[20]

ピール銀行条例に加えて1852年には「銀行券法」が施行され、1854年には高利禁止法が撤廃される[注釈 19]。1856年、パリ宣言私掠船の放棄が謳われる。

1857年恐慌でアメリカ株を中心に市場が弱気となったところ、イングランド銀行は単独で割引を継続し、11月20日だけで100万ポンド近い法定限度超過。追ってピール銀行条例が停止した[21]

1861年には再びイングランド銀行条例が成立し、以後、イギリスが世界の実質的な手形交換所と化す[22]。条例の改正や公定歩合については日本でも官報に報じられた[23]。それまでイングランド銀行が25年ごとに国債所有者名簿を閉じていた慣習を廃止[24]

1866年の恐慌でベイルアウト。発端は割引商会オーバーレンド・ガーニー(現・バークレイズ)の失敗に関連した国際金融市場のしぼみと、イタリアでの銀本位制廃止。これにより横浜へ進出していた銀行支店が3つも撤退した。公定歩合10%。二度目の特許状停止。同年、ホンジュラスにおき鉄道スキャンダルさらに移民法制定

1857年恐慌から1873年恐慌を経て、シティー・オブ・グラスゴー・バンクが詐欺的な業務の上に破産した1878年までの20年間は、金利の変更が実に年平均10回にまで及んだ[25]。途中の1868年にはアルフレッド・ド・ロスチャイルドが理事に就任している。終わりの1878年には首相のローズベリーがネイサンの孫ハンナと結婚した。1875年ハックス・ギブズ(Henry Hucks Gibbs)が総裁となった。彼はギブズ商会の共同経営者であった。この会社は1981年に香港上海銀行が買収した。
現代
狭かった国際金融市場

1880年からのボーア戦争では、植民地政府などのために次の金融機関と組んで、非難を浴びながらも国債発行の代理人となった。モルガン・グレンフェルベアリングス銀行、ロスチャイルド、JPモルガン[26]

1890年、デフォルト寸前の[注釈 20]ベアリングス銀行を救済。同行の損失を秘匿しつつ、政府・シ団と組んで保証基金を設置、450万ポンドの外債をとりつける。やがて公衆の知るところとなり、1893年恐慌に発展する[注釈 21][29]

1895年、横浜正金銀行の指図でか、イングランド銀行は下関条約の賠償金を市場に放出。資金は供給過剰となる[30][注釈 22]

1899年、インドを金為替本位制とする。インドは植民地であり、世界的な銀消費国でもあった。1ポンド=銀貨15ルピーとした[31]。前もってブリュッセルで国際通貨会議が開かれていた。飢饉に困ったインド人が銀製品の装飾品を売ることで銀価の低落が起こらないように、それから税収を安定させるために、植民地政府は世界で初めて本格的な灌漑事業をインドに展開した。

1901年、ルピー銀貨の鋳造益を充てていたインドの金本位準備をロンドンへ移送。翌年、インド政庁管轄の紙幣準備の一部をイングランド銀行へ預託させるとともに、同政庁に金の自由鋳造を断念させる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:167 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef