イングランド内戦
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7月2日、マーストン・ムーアの戦いでは、さらに東部連合軍と合流し、議会軍に圧倒的勝利をもたらした。この戦いを勝利に導いたクロムウェルが一躍、議会軍の中で注目されるようになった。
軍・議会の再編と膠着からの脱却

クロムウェルの騎兵隊はこの時すでに鉄騎隊とよばれ勇名を馳せていたが、それだけでは国王軍を撃破することはできなかった。各地方では依然として国王派が優勢であり、再編されたはずの議会軍もばらばらの行動をとり続けていたのである。さらに議会内でも、和平派(長老派)と改革派(独立派)の対立が激化し、悲観的な雰囲気さえ流れ始めていた[2]。政治的にも軍事的にもなお議会派は「烏合の衆」であり、結束を強化する必要に駆られていた。この動きが出始めたのは、軍の指揮官たちからであった。

このとき、和平派(長老派)[3]によって、王党派との交渉が行われていた。この交渉が不調に終わると、改革派(独立派)が議会内で勢いを得て、鉄騎隊の組織機構を軍全体に広げて団結を強める「ニューモデル条例」、無能な指揮官(議員を兼職する指揮官)を軍から排除する辞退条例を成立させた。こうして誕生したニューモデル軍の統一的行動により、戦況は有利に展開することとなる。

8月2日、ロストウィシールの戦い(英語版)。

9月18日、モンゴメリー城の救援(英語版)。

10月27日、第二次ニューベリーの戦い(英語版)。

1645年6月14日、ネイズビーの戦いで国王軍主力を叩き潰すにいたった。以降1年をかけて議会軍は各地を平定した。

7月、3次にわたるトーントン包囲戦(英語版)が終結(1644年9月から)。

7月10日、ラングポートの戦い(英語版)。

9月、第二次チェスター包囲戦(英語版)開始(1646年2月まで)。

9月24日、ロウトン・ヒースの戦い(英語版)。

1646年2月16日、トリントンの戦い(英語版)。

3月21日、ストウ=オン=ザ=ウォールドの戦い(英語版)。

5月、オックスフォード包囲戦(英語版)。

チャールズ1世は自らの負けを悟って再度の和平交渉を持ちかけた。このとき議会の主導権を握っていた独立派は和平の提案を一蹴し、チャールズ1世は独立派と疎遠になりつつあったスコットランドに逃亡した。しかし結局国王の身柄はイングランドに引き渡され、核を失った国王軍は議会軍に投降し、1647年1月に内戦はひとまず幕を迎えた。
内部対立

軍事的対立が一段落すると、議会内で主導権を取り返した「長老派」と「独立派」の対立が再燃した。この対立は次第に議会と軍の対立へと構図を変えていき、議会内のみならず、言論界でも巻き起こった。長老制教会体制と教会の秩序維持を支持する長老派と、信仰は個人の自主性が尊重されるべきであるとする分離派のパンフレット合戦が起こった。独立派は、政治的には長老派と対立していたものの、宗教観としては分離派と長老派の中間に立っていた。形だけの長老制樹立法案が通過し、さらに議会が軍を解散させようとしたことなど[4]が重なり、兵士たちは信仰の自由と民主主義を唱えて猛然と反発した。このころから市民・兵士の間で平等派が力を増していった。

1647年から独立派と平等派はそれぞれの政治綱領として『建議要目』『人民協定』を起草、10月、両派の主張が激突したパトニー討論ではニューモデル軍の多数派だった平等派の不満が噴出したが、独立派のヘンリー・アイアトンとクロムウェルに押さえ込まれた。11月11日、この会議を聞いて暗殺を恐れたチャールズ1世がハンプトン・コート宮殿から脱出した為、国王の処刑を求めたアジテーターの勢いはさらに増すことになった。
第二次イングランド内戦チャールズ1世の処刑詳細は「第二次イングランド内戦(英語版)」を参照

スコットランド内戦中、議会とスコットランド国教会は長老制を徹底しないことに不満を持っていた為、イングランドとスコットランドそれぞれの内部対立を奇貨とした王チャールズ1世と国王派は、1647年12月にスコットランドと結託して和解契約を結びエンゲージャーズ(英語版)を結成し、1648年3月に再度戦いを挑んだ(第二次イングランド内戦(英語版))。

5月8日、セント・ファーガンスの戦い(英語版)。

5月31日、ペンブルック包囲戦(英語版)。

6月1日、メードストンの戦い(英語版)。

6月12日、コルチェスター包囲戦(英語版)。

7月、フランスでフロンドの乱が勃発。

8月17日、プレストンの戦い

この節の加筆が望まれています。

プライドのパージと共和政成立詳細は「w:High Court of Justice for the trial of Charles I」を参照

第二次イングランド内戦は半年であっけなく鎮圧され、国王との和解が不可能であることが平等派だけでなく独立派にも認識されるようになった。また、当時内戦による統制の失効で出版物が大量に出回るようになっており、パンフレットやニューズブック類、説教での主張や議論を通し、チャールズ1世の裁判の前に国王の死という運命が徐々に形成されていった[5]。いまだ国王との和解を諦めていない長老派を主流とする議会にクロムウェルもようやく見切りをつけ、1648年12月6日、プライド大佐は一隊を率いて議会に乱入し長老派議員を議会から締め出した(クロムウェルは北イングランドにいたため不在)。これが『プライドのパージ』とよばれる軍事クーデターであり、残った五十数名の議員のみからなる下院(ランプ議会)を承認した。

ランプ議会は翌1649年1月から国王チャールズ1世の裁判を開始し、27日に死刑の判決が下り、30日にチャールズ1世は処刑(英語版)された[6]。貴族院が廃止され、5月13日にバンベリーで平等派が扇動した軍の反乱が鎮圧されて5月17日に首謀者が処刑され、5月19日に共和政のイングランド共和国1649年 - 1660年)の樹立を宣言した。一方、2月5日にチャールズ1世の処刑をうけて、チャールズ2世の即位がスコットランドで宣言された。
第三次イングランド内戦詳細は「第三次イングランド内戦(英語版)」を参照「クロムウェルのアイルランド侵略」も参照


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