イングランド人
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デーン人は英語に顕著な影響を残しており、「dream (夢)」「take (取る)」「they (彼らは)」「them (彼らを)」などは古ノルド語起源であり[38]、また語尾に「thwaite」「by」とつく地名はスカンジナビア起源である[39]
イングランド統一600年ごろ、アングロ・サクソン人居住後のグレートブリテン島南部。多数の小王国に分かれている

ブルナンバーの戦い以降、ウェセックスアゼルスタンによりイングランドの国民としてのまとまりが形成された[40][41]。ウェセックスが南西部の小さめの王国からイングランド王国の創設へと進む中で、すべてのアングロ・サクソン人の王国とデーンロウが併合されていった[42]
ノルマン朝・アンジュー朝

1066年ノルマン・コンクエストによって、アングロ・サクソン人およびデーン人による支配は終わりを迎え、ノルマン人の中枢は、ほぼ完全にアングロ・サクソンの貴族政治家および教会の指導者に取って代わった。ノルマン・コンクエストの後は、「イングランド人」の語は、アングロ・サクソン人、スカンディナヴィア人、ケルト人など各人のルーツにかかわらず、イングランドのすべての土着民を表すようになった。これはノルマン人の侵略者と区別するためであり、ノルマン・コンクエストから1・2世代の間、彼らはたとえイングランドで生まれていてもノルマン人 (Norman) と呼ばれた[43]。ノルマン朝はスティーブンの死(1154年)までの87年間イングランドを支配し、その後はプランタジネット朝ヘンリー2世に受け継がれ、イングランドは1399年までアンジュー帝国の一部であった。

様々な当時の資料が示すところによれば、征服後50年のうちに、在野のノルマン人は言語を英語に切り替えたという。アングロ・ノルマン語 (Anglo-Norman language) も、ノルマン朝の政治・法律上の威厳ある言語として存続したが、これは多分に社会的な惰性もあった。たとえば、歴史家のオルドリク・ヴィタル(Orderic Vitalis)は1075年にノルマン人の騎士の子供として生まれたが、フランス語は第二言語として習ったまでだと書いている。アングロ=ノルマン語は、エドワード1世の即位までプランタジネット朝の王の間で使われ続けた[44]。この時代、イングランド人の言葉がより重用されて法廷でも用いられるようになり、ノルマン人が徐々にイングランド人に同化されていき、14世紀には支配者も被支配民も自らをイングランド人と認識して英語を話すまでになった[45]

ノルマン人の同化にもかかわらず、公的な文書における英語とフランス語の区別は、日常の用法から退場した後も長く続いた。特に「イングランド人の証明 (Presentment of Englishry)」という法律用語が典型的である(ハンドレッド【Hundred イングランドなどで以前用いられていた行政区画】内で見つかった身元不明の他殺体を、ノルマン人ではなくイングランド人と証明しなければハンドレッドに罰金がかかるという規定)。この規定は1340年に撤廃された[46]
イングランドとイギリスSt George's Cross
(イングランド王国)St Andrew's Cross
(スコットランド王国)Great Britain
(グレートブリテン王国)St Patrick's Cross
(アイルランド王国)United Kingdom
(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)

16世紀から、イングランドはブリテン諸島全域をカバーするより広い国家、すなわち現在でいうイギリス(連合王国)の一部となった。ウェールズは1535年から1542年のウェールズ併合法 (Laws in Wales Acts 1535?1542) によってイングランドに併合された[47]。スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世となり(王冠連合)、ブリテンの王と呼ばれたいと表明したことをきっかけに、新しいイギリス人としてのアイデンティティが確立されていった[48]。1707年、スコットランド議会・イングランド議会双方での連合法の可決をもって、イングランドとスコットランドとの連合が組まれ、グレートブリテン王国が創設された。1801年、新たな連合法によって、グレートブリテン王国とアイルランドの連合が組まれ、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が創設された。1922年、アイルランドの総人口の3分の2ほど(アイルランド32郡のうち26郡の居住者)が連合王国を脱してアイルランド自由国を設立し、残った領土が現在のグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(イギリス)を形成した。

イギリス(連合王国)史を通して、イングランド人は人口・政治的発言力に関して支配的であった。このため、「イングランド人らしさ」と「イギリス人らしさ」の概念はしばしば重なった。同時に、1707年の連合の後は、イングランド人は、ブリテン諸島の他の民族と同様に、それぞれの構成国民ではなくイギリス国民として自己認識することが推奨された[49]
近年の移民

ノルマン・コンクエスト以後、イングランドの征服が成功したことはなく、それ以前から大規模な移住もされていないが、それでもイングランドは17世紀以降様々な時代において、大小の移民の行き先となっている。これらの人々の中には独立した民族アイデンティティを保持している者も、イングランド人に同化したり民族間結婚をしたりした者もいる。オリバー・クロムウェルのユダヤ人再植民(1656年)以来、19世紀にはロシア帝国から、20世紀にはドイツからユダヤ人移民も押し寄せてきた[50]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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