イングランド人
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例えば、北アフリカ人も少数ながら存在していたと考えられる考古学上の発見もあるのだ[32][33]

アングロ・サクソン人の渡来およびローマ・ブリトン人との関係が実際どのようなものであったかは議論の余地がある。慣習的には、様々なアングロ・サクソンの部族が大規模な侵略を行い、グレートブリテン島南東部(現在でいうコーンウォールを除くイングランド)の土着ブリトン人を追い出したとされていた。この説の裏付けはギルダスの著書である。これは5世紀のイングランドに関する唯一の歴史的資料であり、侵略者によってもたらされたブリトン人の虐殺・窮乏について述べている[34]。これに加え、英語にはブリソン諸語からの借用語がほんの一握りしかないことも根拠となっている(とはいえ都市や川の名前の中にはブリソン諸語以前の起源を持つものもあり、特にブリテン諸島西側になるにつれて多くなっている[35])。しかし、最近になってこの説を再検討する考古学者や歴史家もいる。大規模なブリトン人の駆逐に対して見つかる証拠が少なすぎるという主張である。考古学者のフランシス・プライアー (Francis Pryor) は、「新石器時代以降、それと分かる大規模な移住の証拠はまったく見あたらない」と言っている[36]。歴史家のマルコム・トッドはこう述べている。ブリトン人の大部分がその土地にとどまり、漸次ゲルマン式の貴族社会にとりこまれたと考えるほうがずっと妥当だ。不確かではあるが、アングロ・サクソン人の貴族に嫁いでいってケルトの名前を捨てたのだという事例も考えられる。しかし、アングロ・サクソン人が支配権を持って居住していた地域に、考古学的もしくは言語学的に現存するブリトン人(の痕跡)をどうやって探し当てればよいのか、というのは古代イングランドの歴史を考える上で最も難解な問題だ。
ヴァイキングの来襲とデーンロウの成立

800年ごろから、デーン人によるヴァイキングの襲撃がブリテン諸島沿岸部を襲い、やがてイングランドにデーン人の定住者が相次ぐようになった。ヴァイキングは最初、イングランド人と別の民族だとはあまり思われておらず、区別が正式に明文化されたのは、アルフレッド大王デーンロウの画定のためにアルフレッド・グスラン協定に調印したときである。これによりイングランドはイングランド人とデーン人、それぞれの支配領域に分けられ、デーン人は北イングランドと東イングランドを支配した[37]。しかしながら、アルフレッド大王の後任の王たちは戦で次々とデーン人を破り、デーンロウの大部分を黎明期のイングランド王国へ編入していった。デーン人の侵略は11世紀まで続き、イングランド統一まではイングランド人の王とデーン人の王が両立していた(例を挙げれば、エゼルレッド2世はイングランド人の王で、クヌートはデーン人の王である)。

次第に、イングランドのデーン人は「イングランド人」として見られるようになった。デーン人は英語に顕著な影響を残しており、「dream (夢)」「take (取る)」「they (彼らは)」「them (彼らを)」などは古ノルド語起源であり[38]、また語尾に「thwaite」「by」とつく地名はスカンジナビア起源である[39]
イングランド統一600年ごろ、アングロ・サクソン人居住後のグレートブリテン島南部。多数の小王国に分かれている

ブルナンバーの戦い以降、ウェセックスアゼルスタンによりイングランドの国民としてのまとまりが形成された[40][41]。ウェセックスが南西部の小さめの王国からイングランド王国の創設へと進む中で、すべてのアングロ・サクソン人の王国とデーンロウが併合されていった[42]
ノルマン朝・アンジュー朝

1066年ノルマン・コンクエストによって、アングロ・サクソン人およびデーン人による支配は終わりを迎え、ノルマン人の中枢は、ほぼ完全にアングロ・サクソンの貴族政治家および教会の指導者に取って代わった。ノルマン・コンクエストの後は、「イングランド人」の語は、アングロ・サクソン人、スカンディナヴィア人、ケルト人など各人のルーツにかかわらず、イングランドのすべての土着民を表すようになった。これはノルマン人の侵略者と区別するためであり、ノルマン・コンクエストから1・2世代の間、彼らはたとえイングランドで生まれていてもノルマン人 (Norman) と呼ばれた[43]。ノルマン朝はスティーブンの死(1154年)までの87年間イングランドを支配し、その後はプランタジネット朝ヘンリー2世に受け継がれ、イングランドは1399年までアンジュー帝国の一部であった。

様々な当時の資料が示すところによれば、征服後50年のうちに、在野のノルマン人は言語を英語に切り替えたという。アングロ・ノルマン語 (Anglo-Norman language) も、ノルマン朝の政治・法律上の威厳ある言語として存続したが、これは多分に社会的な惰性もあった。たとえば、歴史家のオルドリク・ヴィタル(Orderic Vitalis)は1075年にノルマン人の騎士の子供として生まれたが、フランス語は第二言語として習ったまでだと書いている。アングロ=ノルマン語は、エドワード1世の即位までプランタジネット朝の王の間で使われ続けた[44]。この時代、イングランド人の言葉がより重用されて法廷でも用いられるようになり、ノルマン人が徐々にイングランド人に同化されていき、14世紀には支配者も被支配民も自らをイングランド人と認識して英語を話すまでになった[45]

ノルマン人の同化にもかかわらず、公的な文書における英語とフランス語の区別は、日常の用法から退場した後も長く続いた。特に「イングランド人の証明 (Presentment of Englishry)」という法律用語が典型的である(ハンドレッド【Hundred イングランドなどで以前用いられていた行政区画】内で見つかった身元不明の他殺体を、ノルマン人ではなくイングランド人と証明しなければハンドレッドに罰金がかかるという規定)。この規定は1340年に撤廃された[46]
イングランドとイギリスSt George's Cross


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