イングランド人
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イングランドがイギリスの中で支配的なポジションを占めており、「English (イングランドの)」と「British (イギリスの)」という用語がしばしば混同して用いられることも、事態をなお複雑にしている[29]。これに関連して、イングランドの祖先を持つ人々を対象とする研究の結果、これらの人々の多くは、外国に住んでいるときさえ、自らを「民族集団」と考えていない、ということが明らかになった。パトリシア・グリーンヒルがイングランド出自のカナダ在住者を調査したところ、彼らは自分たちのことを「民族 (ethnic)」とは考えず、「普通の人 (normal)」や「主流 (mainstream)」と考えていることが分かった。グリーンヒルは、イギリス文化がカナダで支配的であることをこの傾向の理由としている[30]。作家のポール・ジョンソンは、他の支配的なグループがほとんどそうするように、イングランド人は閉塞感を抱いている時に、民族的な自己定義に興味があることを示してみせただけだ、と指摘している。
イングランド民族の歴史
概観

オックスフォード英語辞典によれば、「English」の語の意味には、旧石器時代の狩猟生活者・ケルト系ブリトン人・ローマ帝国の入植者など、イングランド最初期の居住者は含まれない[31]。これは、ローマによるブリテン支配期以前、現在イングランドと呼ばれている地域ははっきりとした国を形成していなかったためである。ブリテンの原住民はブリトン(ブリソン)と呼ばれ、ブリソン諸語を話し、多くの部族に分かれていた。「English」の用語が指すのは、5世紀のアングロ・サクソン人の来訪以降の文化遺産である。アングロ・サクソン人はローマ・ブリトン人 (Romano-British culture) がすでに居住していた土地に移住している。このため、「English」の語が指し示す文化遺産には、イングランドに残るローマ・ブリトン人、さらには後から移住したスカンジナビア人やノルマン人の遺産も含まれている[31]
ローマ支配下のブリテンと、アングロ・サクソン人のイングランド

「English (イングランド人)」という言葉ははじめアングル人を指していた。アングル (Angle) 人は、イングランド (England:Angle-land) およびイングランド人の名前の由来になった。5世紀頃、アングル人はユトランド半島付け根のドイツ北部アンゲルン半島(独:Angeln)から、サクソン (Saxon) 人は現在のドイツ低地ザクセン(英:Saxony)州から、ジュート (Jute) 人デンマークのユトランド (英:Jutland) 半島から、ローマ人がブリテンから撤退した後のイングランドへ渡来した。8世紀のアングル人の王、マーシア王国のオファはイングランドの覇王(ブレトワルダ)となり、東の大陸のフランク王国シャルルマーニュと対等に国交を行い、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いた。9世紀、サクソン人の国であるウェセックス王国がイングランドを統一し、アングル人・サクソン人・ジュート人はゲルマン人の近縁部族集団であるため同化し、アングロ・サクソン (Anglo-Saxon) 人となった。サットン・フーで発見された墓の復元レプリカ

しかしながら、アングロ・サクソン人が渡来したのは、ローマ・ブリトン人がすでに住む土地であった。ローマ・ブリトン人は土着のブリソン諸語話者の末裔で、1世紀から5世紀、ローマ支配下のブリテン地域に居住していた民族である。さらに、ローマ帝国の多民族性を考えれば、他の少数民族もアングロ・サクソン人の渡来以前から存在していたと考えられる。例えば、北アフリカ人も少数ながら存在していたと考えられる考古学上の発見もあるのだ[32][33]

アングロ・サクソン人の渡来およびローマ・ブリトン人との関係が実際どのようなものであったかは議論の余地がある。慣習的には、様々なアングロ・サクソンの部族が大規模な侵略を行い、グレートブリテン島南東部(現在でいうコーンウォールを除くイングランド)の土着ブリトン人を追い出したとされていた。この説の裏付けはギルダスの著書である。これは5世紀のイングランドに関する唯一の歴史的資料であり、侵略者によってもたらされたブリトン人の虐殺・窮乏について述べている[34]。これに加え、英語にはブリソン諸語からの借用語がほんの一握りしかないことも根拠となっている(とはいえ都市や川の名前の中にはブリソン諸語以前の起源を持つものもあり、特にブリテン諸島西側になるにつれて多くなっている[35])。しかし、最近になってこの説を再検討する考古学者や歴史家もいる。大規模なブリトン人の駆逐に対して見つかる証拠が少なすぎるという主張である。考古学者のフランシス・プライアー (Francis Pryor) は、「新石器時代以降、それと分かる大規模な移住の証拠はまったく見あたらない」と言っている[36]。歴史家のマルコム・トッドはこう述べている。ブリトン人の大部分がその土地にとどまり、漸次ゲルマン式の貴族社会にとりこまれたと考えるほうがずっと妥当だ。不確かではあるが、アングロ・サクソン人の貴族に嫁いでいってケルトの名前を捨てたのだという事例も考えられる。しかし、アングロ・サクソン人が支配権を持って居住していた地域に、考古学的もしくは言語学的に現存するブリトン人(の痕跡)をどうやって探し当てればよいのか、というのは古代イングランドの歴史を考える上で最も難解な問題だ。
ヴァイキングの来襲とデーンロウの成立

800年ごろから、デーン人によるヴァイキングの襲撃がブリテン諸島沿岸部を襲い、やがてイングランドにデーン人の定住者が相次ぐようになった。ヴァイキングは最初、イングランド人と別の民族だとはあまり思われておらず、区別が正式に明文化されたのは、アルフレッド大王デーンロウの画定のためにアルフレッド・グスラン協定に調印したときである。これによりイングランドはイングランド人とデーン人、それぞれの支配領域に分けられ、デーン人は北イングランドと東イングランドを支配した[37]。しかしながら、アルフレッド大王の後任の王たちは戦で次々とデーン人を破り、デーンロウの大部分を黎明期のイングランド王国へ編入していった。デーン人の侵略は11世紀まで続き、イングランド統一まではイングランド人の王とデーン人の王が両立していた(例を挙げれば、エゼルレッド2世はイングランド人の王で、クヌートはデーン人の王である)。


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