イングランド人
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イングランド国民としてのアイデンティティの表現には「共通の祖先」という信条が含まれることがあるが、政治に携わるイングランドの民族主義者の中で、イングランド人らしさを一種の縁戚関係として考える者はめったにいない。例えば、English Democrats (イングランド民主党。イングランド地方議会の開催を目指す政治団体) の声明には「我々は、イングランド人らしさを単に民族的なもの、あるいは文化的なものとは考えず、この二つが複雑に混じり合ったものだと考える。我々は、イングランド人らしさが心のあり方 (state of mind) であると堅く信じている」とある[18]。また、Campaign for an English Parliament (同様のロビー活動を行う団体) は、「民族性・人種・宗教・文化にかかわらず、この古くからの土地を自らの故郷・自らの未来と考える人はすべてイングランド人である」と言っている[19]

ガーディアン紙中で、アンドレア・レヴィ (Andrea Levy ジャマイカ人の両親を持つロンドン生まれの小説家) はイングランドは「紛れもなく」独立した国 (separate country) であり、自らを「いわゆる、生まれも育ちもイングランドのイングランド人(私の覚えている限りでは、生まれ育ちという言葉はアングロ・サクソンから直系で繋がる白人の祖先とともに生まれ育った、という言葉ではない)」と断言し、「イングランドが排他的な集団になったことはなく、むしろ混成国民であった」と主張した。レヴィはまた「イングランド人らしさというものは、決して民族性と結びつけられることがないようにしなければならない。イングランド人の大部分は白人だが、そうでない者もいる……イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドは多元的・包括的なnationであるべきだ」[20]

しかしながら、ほとんどのイングランドの非白人は、イングランド人よりもむしろイギリス人としてのアイデンティティを持っていることを考えれば、ここでの「English(イングランドの、イングランド人の)」という言葉の使い方には議論の余地がある。イギリス国立統計局 (Office of National Statistics) は、2004年の国勢調査の中で、イギリス人の民族的アイデンティティ意識と国民的アイデンティティ意識を比較した。この結果、白人の58%が自身の民族的帰属(nationality)が「イングランド人(English)」であると答え、非白人の大部分は「イギリス人 (British)」と答えた。例を挙げれば、「78%のバングラデシュ人(民族的出自がバングラデシュの人々)が自らがイギリス人だと答え、イングランド人・スコットランド人・ウェールズ人であると答えたのは5%に過ぎなかった」。また、自らをイングランド人とした非白人は、民族を「混血 (Mixed)」であるとした割合が37%と最も多かった[21]
起源

イングランドはブリテン諸島の近隣国との緊密な交流があり、また様々な時代ごとに移民が加わってきた背景があるため、イングランド人の起源を明確に特定するのは難しい。旧来の視点では、イングランド人は、第一にローマ帝国の支配の終焉に伴ってグレートブリテン島に渡ってきたアングロ・サクソン人その他のゲルマン人の子孫であり、後にノルマン人やヴァイキングなどの移民を同化してきたものとされている。だがこの歴史的見解を、単純化しすぎたもの、あるいは誤りだとさえ指摘する歴史家や遺伝学者もいる。しかしながら、アングロ・サクソン系イングランド人という考え方は、伝統的に見て、イングランド人のアイデンティティを定義し、スコットランド人・ウェールズ人・アイルランド人といったケルト系の近隣国に対してイングランド人を特徴付けるのに重要な役割を果たしている。さらに、イングランドのアングロ・サクソン起源は、長きにわたって存在するイングランドの祖先と、ずっと近年になって渡ってきた祖先との区別を図る人々にとって重要である。例えばサラ・ケインの舞台劇「Blasted」でも民族ナショナリズムの姿勢がみられ、移民の子供と自らを対比して「俺は輸入品じゃないんだ」という台詞がみられる。「彼ら(移民)には子供がいる。子供はイングランド人と呼ばれるが、イングランド人じゃない。イングランドで生まれたからイングランド人になるってわけじゃない」[22]

イングランド人としてのアイデンティティに大衆的な関心が寄せられていることは、近年イングランド人自身による科学的・社会的調査が行われていることからも分かるが、こういった調査の報告は、複雑な結果をひどく単純化している。2002年英国放送協会は「イングランド人とウェールズ人は別の人種」という見出しで、イングランド・ウェールズ両者の市場町から被験者を選んで行った遺伝的な調査のレポートを行った[23]。また一方で2006年9月、サンデー・タイムズ紙は、イギリス中の住人の名前の調査を行い、その結果リプリー市を「最も『イングランドらしい』町」だと発表した。リプリー市の住民のうち88.58%がイングランドの民族的背景を持っている、というのがその理由である[24]デイリー・メール紙は「我らはみなゲルマン人!(1600年間在住)」という見出しの記事を掲載した[25]。これらの事例のいずれをとっても、研究の結論は、ジャーナリストが人種という用語を使っただけの、誇張や誤解釈に基づいたものであった[26]。さらに、シュテフェン・オッペンハイマー (Stephen Oppenheimer) やブライアン・サイクスを始めとする最近の研究書は、近年の遺伝的研究をもってもイングランド人と「ケルト系」近隣国をはっきり区別する線引きはできず、段階的なクライン(地域的連続変異)が西(主にイベリア起源)から東(主にイベリアバルカン起源)に流れている、と主張している。これらの研究書によれば、イギリス人の祖先の大部分は旧石器時代からのグレートブリテン島定住者で、東岸・西岸の間の差はそれほど大きくはないが、先史時代古くからのもので、主に旧石器時代から中石器時代(1万5千年前から7千年前)に起因するものだと考えられている。

イギリスの人々のうちどれだけが自らをイングランド人と考えているのかは定かではない。2001年のイギリス国勢調査では、調査対象者は自分の民族を明示するよう求められていたが、チェックマークの項目は「アイルランド人」「スコットランド人」のみで、「イングランド人」「ウェールズ人」の項目は一般項目の「イギリス白人 (White British)」に組み込まれていたため、存在しなかった[27]。この調査に対する苦情に応え、2011年の国勢調査では「調査対象者にイングランド・スコットランド・北アイルランド・アイルランド・その他の民族アイデンティティの回答ができるようにする」予定になっている[28]

イングランドがイギリスの中で支配的なポジションを占めており、「English (イングランドの)」と「British (イギリスの)」という用語がしばしば混同して用いられることも、事態をなお複雑にしている[29]。これに関連して、イングランドの祖先を持つ人々を対象とする研究の結果、これらの人々の多くは、外国に住んでいるときさえ、自らを「民族集団」と考えていない、ということが明らかになった。パトリシア・グリーンヒルがイングランド出自のカナダ在住者を調査したところ、彼らは自分たちのことを「民族 (ethnic)」とは考えず、「普通の人 (normal)」や「主流 (mainstream)」と考えていることが分かった。グリーンヒルは、イギリス文化がカナダで支配的であることをこの傾向の理由としている[30]。作家のポール・ジョンソンは、他の支配的なグループがほとんどそうするように、イングランド人は閉塞感を抱いている時に、民族的な自己定義に興味があることを示してみせただけだ、と指摘している。
イングランド民族の歴史
概観

オックスフォード英語辞典によれば、「English」の語の意味には、旧石器時代の狩猟生活者・ケルト系ブリトン人・ローマ帝国の入植者など、イングランド最初期の居住者は含まれない[31]。これは、ローマによるブリテン支配期以前、現在イングランドと呼ばれている地域ははっきりとした国を形成していなかったためである。ブリテンの原住民はブリトン(ブリソン)と呼ばれ、ブリソン諸語を話し、多くの部族に分かれていた。「English」の用語が指すのは、5世紀のアングロ・サクソン人の来訪以降の文化遺産である。アングロ・サクソン人はローマ・ブリトン人 (Romano-British culture) がすでに居住していた土地に移住している。このため、「English」の語が指し示す文化遺産には、イングランドに残るローマ・ブリトン人、さらには後から移住したスカンジナビア人やノルマン人の遺産も含まれている[31]
ローマ支配下のブリテンと、アングロ・サクソン人のイングランド

「English (イングランド人)」という言葉ははじめアングル人を指していた。アングル (Angle) 人は、イングランド (England:Angle-land) およびイングランド人の名前の由来になった。5世紀頃、アングル人はユトランド半島付け根のドイツ北部アンゲルン半島(独:Angeln)から、サクソン (Saxon) 人は現在のドイツ低地ザクセン(英:Saxony)州から、ジュート (Jute) 人デンマークのユトランド (英:Jutland) 半島から、ローマ人がブリテンから撤退した後のイングランドへ渡来した。8世紀のアングル人の王、マーシア王国のオファはイングランドの覇王(ブレトワルダ)となり、東の大陸のフランク王国シャルルマーニュと対等に国交を行い、西のウェールズとの境にオファの防塁を築いた。9世紀、サクソン人の国であるウェセックス王国がイングランドを統一し、アングル人・サクソン人・ジュート人はゲルマン人の近縁部族集団であるため同化し、アングロ・サクソン (Anglo-Saxon) 人となった。サットン・フーで発見された墓の復元レプリカ

しかしながら、アングロ・サクソン人が渡来したのは、ローマ・ブリトン人がすでに住む土地であった。ローマ・ブリトン人は土着のブリソン諸語話者の末裔で、1世紀から5世紀、ローマ支配下のブリテン地域に居住していた民族である。


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