追い込み漁は特別の道具を使うことは少ないため、考古学的な遺物が残りにくい。そのためもあって追い込み漁だったかどうかは分からないが、縄文時代の真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町)から日本最古のイルカ漁の跡が見つかっている[18]。また、入江貝塚(北海道虻田郡洞爺湖町)[19]、稲荷山貝塚(神奈川県横浜市南区)[20]、称名寺貝塚(横浜市金沢区)[21]、井戸川遺跡(静岡県伊東市)[22]などからもイルカの骨が見つかっている[23]:96。
千葉県では縄文時代早期の約1万年前から沖ノ島遺跡(館山市沖ノ島)でイルカ漁が始まっており[24]:217、谷向貝塚(南房総市)や稲原貝塚(館山市)からも大量にいるかの骨が出土している。稲原貝塚からは黒曜石が刺さったイルカの骨も見つかっている[24]:22。この他、根郷貝塚(鎌ケ谷市)、古作貝塚(船橋市)、鉈切洞窟遺跡(館山市)などからもイルカの骨が見つかっている[23]:96。 日本におけるイルカ(小型鯨類)の組織的捕獲に関する最古の記録とみられるものに、1377年(永和3年)、長崎県・五島列島の豪族青方氏の青方重(あおかた・しげし)が残した置文(譲状[25])があり、以下の内容から当時すでに「海豚網」(いるかあみ)が存在していたとうかがわれる[26]。青方重置文案 これについて、静岡産業大学教授の中村羊一郎は「当主、青方重が子孫に残した置文において、鰹・鮪・海豚を狙った網について、もし力があるなら人足を駆り出しても精出して管理運営すべきである、」と解釈し、建切網を仕掛けて回遊する海豚を捕獲する追い込み漁の存在を推測した[26]。 追い込み漁には大人数が必要な為、中世の対馬にも同様の事情をうかがわせる宗正永(貞茂)の1404年(応永11年)の判物の写し(1723年(享保8年)の『宗家御判物写 與良郷 下』)が見つかっている[27]。 静岡県伊東市の井戸川遺跡から、15世紀末から16世紀前半にかけて食べられたと見られるイルカの骨が大量に見つかっており、静岡県教育委員会はイルカ漁が縄文時代から続いていた可能性が高いと考察している[28]。 1675年には現宮城県気仙沼市の唐桑では、イルカの群れが押し寄せてきた時には、唐桑半島と大島の間に建切網を張っての追い込み漁が行われていた記録が残っている。唐桑では明治初めの頃まで追い込み漁が行われていた[29]:12[30]。 1745年に、現静岡県の湯川村で、イルカの大規模捕獲に関係しての争いがあった様子が記録されている。 1773年(安永2年)3月に、唐津藩士の木崎攸軒(きざき・ゆうけん)が描いた『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』が成立した[4]。このうち「海豚漁事」(又は「江豬漁事」)は、海豚の群れを捕獲する追い込み漁の様子が描かれている[31](#外部リンクも参照)。 1838年に北村穀実が書いた『能登国採魚図絵』には、石川県真脇村のイルカ漁についての記録が「いるか廻し」として残されている。それによると、旧暦3月から4月にかけて、6,7人乗りの船3,4艘ほどが「魚見船」として3里の沖に出て、群れを発見すると粗い網で囲って陸に合図を送り、3,4人乗りの船6,7艘が応援に駆けつける。これらの船が船縁などを叩いて音を出し、群れを湾に追い込んで捕らえる。多いときには1000頭ほどが追い込まれ、全て捕るのに2日かかることもあった[32]。説明図には多くの船と網でイルカの群れを囲い込む様子が描かれている[32][33]。 19世紀幕末に浜野健雄が書いた『伊東誌』[34]によると、当時の静岡では追い込み漁ができるほどの組織だった漁業団体が少なく、実施されているのは湯川村、松原村(現伊東市)、稲取村(現東伊豆町)のみであった。
中世
かつをあミ、しひあみ、ゆるかあみ、ちからあらハせうせうハ人をもかり候いて、しいたしてちきょうすへし、
ゑいわ三年三月十七日 ? 『青方文書』 ⇒[3]
近世以降