イリュミナシオン
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マチルドは彼女の異父の兄がランボーの詩を所有していると知ると、あからさまにド・シヴリーが原稿をヴェルレーヌに返したり、原稿を出版しそうな他の人に渡すことを禁止した。マチルドがヴェルレーヌと離婚して再婚した後の1886年まで、彼女は出版の禁止を取り消さなかった。マチルドはランボーのせいでヴェルレーヌとの離婚に追い込まれたことに対する復讐をしたがっていたため、ヴェルレーヌが以前愛していたランボーの原稿を、ヴェルレーヌが再び所持することを禁止した。[27]

ド・シヴリーは、ヴェルレーヌがランボーの詩集の出版に関わらないことを条件に、原稿をルイ・カルドネルに委託した。カルドネルは文学雑誌のLa Vogueの編集者のギュスターヴ・カーンと交渉し、1886年に、ランボーの14行詩の作品とともに詩集の出版に合意した。[28]カーンの要望で、芸術評論家で新聞記者のフェリックス・フェネオンが詩の順番を、それぞれのページで最初と最後の文章がつながるように並べ替えた。順番がそろっていないページは散文詩や少しの孤立したページであった。このような準備にもかかわらず、計画に関わった人々の中の議論が不透明であったため、42編の詩のうち35編の詩だけが、La Vogueで5月13日から6月21日までに出版された。[29]1886年の10月に、カーンはヴェルレーヌに、まだタイトルがついていない一連の詩集をヴォーグ出版社から出版するための序文を書くように依頼した。[21]ヴェルレーヌは詩集全体の名前をIlluminationsかcoloured platesとすることにした。これはランボーがかつて副題として提案したものである。[30]出版者の論争によって、結局原稿を彼らの間で分け合い、原稿は分散することになってしまった。[28]ランボーの原稿が出版されただけでなく、彼の詩集が賞賛され、研究され、ついには彼が努力して伝えようとした考えを認知されたという成果を知る前に、彼は亡くなった。[31]

1895年に、ランボーの完璧な作品と言われている版が、ヴェルレーヌの新しい序文とともに、ヴァニエ出版から出版された。それ以降、ランボーの『イリュミナシオン』は、原文のフランス語の作品と翻訳された作品の両方が数多く出版された。
評価

ポール・ヴェルレーヌはLes Poetes mauditsの一章分全てを使ってランボーのことを書き、彼は若き恋人ランボーに対する献身的な愛と信頼を示した。ヴェルレーヌは1891年の『イリュミナシオン』の出版の際に前書きも書いており、誰もランボーから作品について聞くことなく年月が過ぎていったにもかかわらず、彼の作品はまだ今日的な意味を帯びており、貴重であると論じた。[31]

有名な哲学者で小説家であったアルベール・カミュは、ランボーのことを「反抗的で最高な詩人である」と賞賛している。[32]
翻訳

ランボーを作者とする、当初は19世紀末に執筆、出版された『イリュミナシオン』は、最初に詩が作られて以降、数えきれないほど訳され続けている。 翻訳家 (やしばしば自身も詩人であったが)は20世紀全体にわたってこの仕事を繰り返し引き受け、互いに違った、独創的で革新的な『イリュミナシオン』の翻訳作品を多く作り出した。[33]その中で最も人気の翻訳はルイーズ・ヴァレーズ(1946年/1957年に改訂)、ポール・シュミット(1976年)、ニック・オズモンド(1993年)、デニス・J・カーライル(2001年)、マーティン・ソレル(2001年)、ワイアット・メイソン(2002年)、ジェレミー・ハーディングとジョン・スタロックの合作(2004年)によるものである。[34]これらの翻訳家は全員、『イリュミナシオン』を次の世代に紹介するために努力し、作品の見え方についてそれぞれが独自の観点を持っている。フランス語から英語に翻訳する際の多様性、本文の順番の違い、いくつかの詩を含めるか含めないかという食い違い、翻訳家による序文を組み込むかどうかということはすべて、翻訳作品に『イリュミナシオン』の新しい意味を込める能力を表している。

『イリュミナシオン』をフランス語から英語に翻訳する作業は、翻訳家にとって気がめいるほど大変な作業である。彼らは、言語の不連続性から生じる曖昧さを生み出しながらも、できるだけ原作に忠実に翻訳する方法か、翻訳家の創造性に甘んじて、原文を適当に変更することで詳細に翻訳する方法か、これらの2つの方法の中間にあるちょうどいい翻訳方法のどれかを選択しなければならないことがある。様々な翻訳家たちは、大衆に向けて『イリュミナシオン』の翻訳を様々な観点から発表する上での自分の役割を解釈することによって、この散文詩集に対して多様なバージョンの翻訳作品を生み出している。

『イリュミナシオン』の日本語への翻訳作品は、金子光晴訳『イリュミナシオン ランボオ詩集』が1951年に角川文庫から出版されている。
その後の影響

エクセター大学の教授のマーティン・ソレルによると、ランボーは「文学や芸術の範囲にのみ」影響力があるだけでなく、政治の範囲にも影響が及び、アメリカ、イタリア、ロシア、ドイツの反合理主義革命の動機付けになった。[35]ソレルはランボーのことを「現在とても評判が高い」詩人として賞賛しており、ミュージシャンのボブ・ディランやルイス・アルベルト・スピネッタ、作家のオクタビオ・パスクリストファー・ハンプトンに現れているランボーの影響を指摘している。クリストファー・ハンプトンが1976年に公演した、ランボーとヴェルレーヌについての『太陽と月に背いて』という劇は後に同じ名前の映画が作られている。 [35]

音楽では、ベンジャミン・ブリテンが本作中の10編による弦楽伴奏のための歌曲『イリュミナシオン(英語版)』作品18を1939年に作曲している(他にピアノ伴奏による3曲が死後刊行されている)。
出典^ a b Arthur Rimbaud (1886年). “Les Illuminations” (フランス語). BnF Gallica. 2019年10月28日閲覧。
^ 小林秀雄(『ランボオ詩集』創元社(創元選書)1948年)、中原中也(『ランボオ詩集』野田書房、1937年)は、「飾画」と訳している。
^ Keddour, Hedi. ≪ Illuminations, livre de Arthur Rimbaud ≫ in Encyclopaedia Universalis ⇒[1]
^ Jeancolas, Claude (2004) Rimbaud, l'?uvre integrale manuscrite, Paris: Textuel. Vol. 3: "Transcriptions, caracteres et cheminements des manuscrits," 22.


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