イラン
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これは、イランの活動家であるマシュー・アリネジャード(Masih Alinejad)が「女性に対するヒジャーブ強制を傍観している訳にはいかない」とし、「イラン国内における疑わしい状況に注意を向けよう」という趣旨の元でユーモアを交える形でアクションを起こしているものだとして報道されている[112][113][114][115]
マスコミ詳細は「イランのメディア」を参照
新聞

イランで最初に出た新聞は、Mirza Saleh Shiraziを編集長とする、アフタル紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghiheh(臨時報という意味)が出ていることから、イランの新聞の歴史は古いことがわかる。1906年に憲法が発布され、民間新聞紙の発行もようやく多くなったが、そのなかで有力なものは、Soor-e Israfili, Iran-e Now, Islah, Barq, Watanなどでイラン社会の改革に大きく寄与した。だが言論の自由はなお強く抑圧されていたため、多くの新聞は海外で発行されていた。例えばHikmat(エジプト)・Qanun(ロンドン)・Hablul-Matin(カルカッタ)・Sorayya(エジプト)・Murra Nasruddin(チフリス)・Irshad(バクー)などである。

第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である[116]

通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり、現在も政府管轄下にある[117]

新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。

エッテラーアート

イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとは、ニュースの意味である。

このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが、1935年に創刊の『The Tehran Jounal』である。

ケイハーン

ケイハーンは大空または世界の意で、世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。

その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリー、テヘランに本拠を置く英字新聞『テヘラン・タイムズ』等がある。
ラジオ

イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) に一元化されている。

イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。

また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。



文化詳細は「イランの文化(英語版)」を参照詩人フィルダウスィーによるイランの民族叙事詩、『シャー・ナーメ』。20世紀の小説家、サーデグ・ヘダーヤト11世紀に活躍した哲学者、イブン・スィーナーラテン語ではアウィケンナ、1271年画)。

イランは文化、すなわち美術音楽建築哲学思想伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。

イランのイスラーム化以降は、イスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり、法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するには、イスラムの価値観に合っているかが審査される[118]
食文化詳細は「イラン料理」を参照

米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる海鮮、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理など、種類も豊富である。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『New Food of Life』で「イラン料理はペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。

イラン革命以前は飲酒が盛んであり、現在でも密かに飲まれている[119]
文学詳細は「ペルシア文学」を参照

ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。

20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。

小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの、『生き埋め』(1930年)、『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグ・ヘダーヤトが現れた。
哲学詳細は「ペルシア哲学」を参照

イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナーラテン語ではアウィケンナ)や哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。
音楽詳細は「イランの音楽(英語版)」を参照

クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。

ポピュラー音楽に於いてはイラン・ポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているが、テヘランのロック・バンド Ahoora のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には、127、Hypernova、Angband、Kiosk、The_Yellow_Dogs_Band などのバンドや、Mohsen Namjoo、Agah Bahari、Kavus Torabi らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。
映画詳細は「イランの映画」を参照

イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932年)だった。イラン革命以前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世下ではハリウッド映画インド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958年)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969年)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。


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