反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグやソ連などが支援した[4]イラン共産党(トゥーデ党)などが参加して激化し、デモやストライキが頻発した。
イラン革命テヘランに到着したホメイニー
さらにホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)のイスラム法学者が支柱となった反体制勢力が、帝政打倒を目的とした活動を行い、1979年1月にイラン革命が発生した。
その結果、1月16日に「休暇のためにイランを一時的に去る」と称して、パフラヴィー皇帝が政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近とともに友好的な関係にあるエジプトに亡命した[3]。
2月1日にはホメイニーとその一派は亡命先のパリからエールフランス航空のボーイング747の特別機でテヘランに戻り、ただちにイスラム革命評議会を組織した。2月11日に評議会は権力を奪取し、革命は成功した。
元皇帝のアメリカ入国エジプトに到着したパフラヴィー
パフラヴィー元皇帝とその家族、側近らは一旦はアンワル・アッ=サーダート大統領の承認のもとでカイロに亡命した後、モロッコやバハマ、メキシコを転々とし、メキシコ滞在中、「癌の治療」という名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触した。
ジミー・カーター大統領は、この要請を受けることでイランの新政権との間で軋轢が起きることを憂慮し、退けようとしたが、パフラヴィー元皇帝の友人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け、最終的に「人道的見地」から入国を認め、元皇帝とその一行は10月22日にニューヨークに到着した[3]。
しかしこれに対しイランの革命政権は激怒し、アメリカ政府に抗議すると同時に、テヘランのアメリカ大使館前では毎日のように反米デモが行われるようになっていた。
占拠事件
大使館への不法侵入大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループ事件を報じる1979年11月5日の日付のイランの新聞シュレッダーにかけられた大使館の機密書類
10月22日以降、アメリカが元皇帝を受け入れたことにイスラム法学校の学生らが反発し、テヘランにあるアメリカ大使館を囲んだ抗議デモを行った。
これに対し、アメリカ大統領、国務省、CIA、アメリカ大使館いずれも、事が大きくなる可能性を真剣に考慮せず放置していた。この対応については占拠事件発生後、アメリカ国内で大きな批判を浴びた。
なお、この学生と暴徒らによる行動は、革命政府の保守派と革命防衛隊が裏でコントロールしていたため、穏健なメフディー・バーザルガーン首相ら政府閣僚および警察はこれに対する制止は事実上できなかった。