王朝時代の絵巻物から西洋美術にもジャポニスムとして大きな影響を与えた江戸時代の浮世絵のような版画メディアまで、日本は独自の図説文化を有していた。明治以降、挿絵は基本的に画家が担っていた[11]。この時期の重要な挿絵画家には木村荘八や小村雪岱などがいる[28]。日露戦争以降の商工業の成長と石版印刷の技術向上により広告ポスターが隆盛し、西洋イラストレーションの影響を受け変容が進んでいった[29]。
分野としての「イラストレーション」という呼び名が日本に定着したのは戦後になってからである。1951年に発足した日本宣伝美術会(日宣美)の公募展がデザイナーの登竜門となり、出品作のほとんどにはイラストレーションが用いられた。この時期に早川良雄、粟津潔、灘本唯人らがイラストレーションの土壌を作った[30]。また福音館書店を始めとする児童書の出版社により今日のような絵本が成立したのも1950年代半ばであった[31]。
1960年代にはグラフィックデザイナーとイラストレーターの分業化が始まり、1964年には日宣美の会員たちが東京イラストレーターズ・クラブを結成する[32]。同クラブは「現代をイメージによって証言し そのコスモスの拡大を意識の根底として 創造的形象化をめざす イラストレーターの集団」とのマニフェストを掲げイラストレーションとイラストレーターの存在を世に広めた[33]。宇野亜喜良、和田誠、横尾忠則(横尾は後に「画家宣言」をすることになる)らが活躍して一大ブームを形成し、イラストレーションの市民権を獲得することに成功した[2]。
「挿絵」という言葉より後に出来たことや、紙媒体での挿絵の需要が写真に置き換えられて行く時期であったこともあり[34]、そこには文章に従属した挿絵というニュアンスを超えて、独立した美術表現としてのイラストレーションという分野の確立が打ち出されていた。当時グラフィックデザイナーもしくは漫画家などを兼任していたイラストレーターが独立した職業となるのは1970年代以降であり[35]、分業化されて拡大した日本のデザイン業界と、高度経済成長などの経済力に支えられたマスメディアがその背景にある。
1980年代には美術の抽象化や非絵画化が進行したこともあり、湯村輝彦のヘタうまが社会現象化する[36]など、手近に触れられる楽しい絵画的表現としてイラストレーションが広く受け入れられ、才能が流入し多様化した。一方で、1982年には横尾忠則が「画家宣言」を行うなど、濫造されポップに消費されるイラストレーションに飽き足らず逆に美術の側へと越境する動きも見られ、イラストレーションという概念の曖昧化が進行した[37]。
1990年代にはこうした状況に加え、成長を続けていた日本経済の転換や、メディアの多様化なども手伝い、1992年には長らく権威的存在であった『年鑑日本のイラストレーション』が刊行を停止し、登竜門も『イラストレーション』誌のコンペティション「ザ・チョイス」を残すのみになるなど、活動領域の拡大の一方で表現としてのイラストレーション像は拡散と流動化が進んでいる[38]。
デジタル時代のイラストレーション[ソースを編集]
1990年代から、伝統的な媒体・画材に並んでコンピュータのグラフィックソフトウェアやコンピュータに直接描画するタブレットがイラストレーションに用いられ始めた。イラストレーターたちはデジタルツールを、発表する作品を手っ取り早く調整・編集・送付する手段として用いるようになってきている[39]。編集者の求めに応じ、人物を取り替えたり、建物を右から左に動かしたりといったことが、元々の作品に実際の変更を一切行うことなく可能である。スピードが重要となる業種ではコンピュータは不可欠なものとなっていることも多い一方で、無個性な仕上がりになりやすく個性を活かすのは難しいとも言われる[40]。
表現としては、当初は3Dなどの新奇なものとして使用されたが[39]、技術の発展に伴い自然な表現も可能となり、アナログで描いてデジタルで仕上げ、もしくはデジタルで下絵を作成・出力しアナログで仕上げるなど画材の1つとして使われるようになってきている[41]。