2020年の米国CIAの調査によれば人口は約3887万人で、民族はアラブ人(シーア派約6割、スンニ派約2割)、クルド人(約2割、多くはスンニ派)、トルクメン人、アッシリア人などから構成される[9]。言語はアラビア語とクルド語が公用語である[6]。
地理としては国土の中心をなすのはチグリス川とユーフラテス川が潤すメソポタミア平原であり、「肥沃な三日月地帯」の東部を占めている[7]。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部はペルシア湾(アラビア湾)に臨んでいる[5]。
国名[ソースを編集]
正式名称はアラビア語で、???????????? ????????(ラテン文字転写は、Jumh?r?yatu l-‘Ir?q。読みは、ジュムフーリヤトゥ・ル=イラーク)。通称は、?????????(al-‘Ir?q、アル=イラーク)。
公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク )。通称、Iraq(イラーク)。
日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。
イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Ir?q l-‘Arab?) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Ir?q l-Ajam?) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。
1921年 - 1958年: イラク王国
1958年 - 現在: イラク共和国
歴史[ソースを編集]詳細は「イラクの歴史」を参照
メソポタミア[ソースを編集]キシュから出土した石灰岩の書き板 (紀元前3500年)
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。
メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテル・アル・リマー) からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ(英語版)遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。
ペルシアの支配[ソースを編集]詳細は「アケメネス朝」を参照
ギリシャの支配[ソースを編集]詳細は「マケドニア王国」および「セレウコス朝」を参照
ペルシアの支配[ソースを編集]詳細は「アルサケス朝」および「サーサーン朝」を参照
イスラム帝国[ソースを編集]
西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム (イスラム教徒) からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク (イラーク) と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化した。
8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。
10世紀末にブワイフ朝のエミール・アズド・ウッダウラ(英語版)は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。
モンゴル帝国[ソースを編集]バグダードの戦い (1258年)
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝 (イルハン朝、ティムール朝など) の勢力下に入った。
サファヴィー朝[ソースを編集]
16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。
en:Battle of DimDim (1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・スペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。
オスマン帝国[ソースを編集]オスマン帝国下の中近東地域 (1849年)詳細は「en:Ottoman Iraq」および「en:Mamluk rule in Iraq」を参照
1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。
18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビスマルク体制」が築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。