イラク
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イスラム教徒の内訳はシーア派 60 - 65 %、スンナ派 32 - 37 % である[29]

キリスト教(カトリック東方正教会アッシリア東方教会など)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代と[30]、さらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている[31]
イスラム教シーア派[ソースを編集]ナジャフのイマーム・アリー・モスク(英語版)

全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者 (イマーム) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派ザイド派十二イマーム派ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムマシュハドである。
イスラム教スンナ派[ソースを編集]

スンナ派ではシャーフィイー学派ハナフィー学派ハンバル学派マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。

8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年) は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。

バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(英語版) (Abu al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年) は、合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが、後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム (弁証) をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。

ガザーリー (Al-Ghazali、1058年-1111年) は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレス論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。

イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(英語版) (al-Hasan al-Basri、642年-728年) が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 (スーフィズム) につながっていった。
ヤズィード[ソースを編集]

ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。
キリスト教[ソースを編集]詳細は「イラクのキリスト教(英語版)」を参照

1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。
マンダ教(サービア教)[ソースを編集]

サービア教コーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。
ユダヤ教[ソースを編集]

ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者が居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。
文化[ソースを編集]詳細は「イラクの文化」を参照
食文化[ソースを編集]詳細は「イラク料理」を参照ファットゥーシュ

イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタールアイルランドイギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。
美術[ソースを編集]詳細は「イラク美術(英語版)」および「イスラーム美術」を参照

この節の加筆が望まれています。 (2008年2月)

細密画アラビア書道モスク建築カルバラーナジャフなどのシーア派聖地。
音楽[ソースを編集]詳細は「イラクの音楽(英語版)」を参照ウード (奥) とバチ ウードの弦は複弦であり五コース?六コースのものが多い

伝統的な楽器としてリュートに類似するウードヴァイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。

ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部 (イラク) にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀キンディー (あるいはズィリヤーブとも云う) によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い (正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦?十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最低音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。

カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するものなどもある。

また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードエジプトカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブなどのウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーンなどの精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。


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