イラク
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1941年4月1日、イラク・クーデター(英語版)によりラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)のクーデター政権が出来たが、5月2日、イラク軍とイギリス軍との間で交戦状態となった[11]イラク戦役で崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐

1943年、en:1943 Barzani revolt。1945年12月、ムッラー・ムスタファ・バルザーニー(英語版)がソ連占領下の北西部マハーバードクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 (en:Iran crisis of 1946)。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。

1948年、en:Anglo-Iraqi Treaty (1948)。5月15日第一次中東戦争 (1948年 - 1949年) が勃発。

1955年中東条約機構 (METO) に加盟。1956年10月29日、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 (1956年 - 1957年) が勃発。アブドルカリーム・カーシムら自由将校団 (イラク)(英語版)が参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。
アラブ連邦[ソースを編集]

1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。
イラク共和国 (第一共和政)[ソースを編集]詳細は「Republic of Iraq」を参照
カーシム政権[ソースを編集]

1958年7月14日、自由将校団 (イラク)(英語版)のクーデターによって倒され (7月14日革命)、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立[注 3]。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。

1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したモースル蜂起(英語版)が勃発。3月24日、中東条約機構 (METO) を脱退。1960年9月、カーシム首相がイラク石油会社 (IPC) の国有化を発表。1960年9月14日、バグダッドで石油輸出国機構(OPEC)結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。6月25日、カーシムがクウェート併合に言及すると、7月1日にイギリス軍がen:Operation Vantageを発動し、独立を支援した。9月11日、第一次クルド・イラク戦争(英語版) (1961年 - 1970年) が勃発した。
イラク共和国 (第二共和政)[ソースを編集]
第1次バアス党政権 (アル=バクル政権)[ソースを編集]

1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された (ラマダーン革命)。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。
アーリフ兄弟政権[ソースを編集]

1963年11月18日にアブドゥッサラーム・アーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。1966年4月13日、アブドゥッサラーム・アーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーン・アーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し、1967年にアメリカとの国交を断絶。6月、第三次中東戦争
バアス党政権 (第三共和政)[ソースを編集]詳細は「バアス党政権 (イラク)」を参照
第2次バアス党政権 (アル=バクル政権)[ソースを編集]

1968年7月17日にバアス党政権が発足 (7月17日革命)、アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領に就任した。1970年3月11日、en:Iraqi-Kurdish Autonomy Agreement of 1970でクルディスタン地域 (アルビール県ドホーク県スレイマニヤ県) を設置。石油を産出するニーナワー県キルクーク県は含まれなかった。1972年ソビエト連邦と友好条約を締結。1973年10月、第四次中東戦争に参戦。同年10月16日、イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動し、オイルショックが引き起こされた。第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して第二次クルド・イラク戦争(英語版) (1974年 - 1975年) が勃発。ペシュメルガなどを含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握した。
サッダーム・フセイン政権[ソースを編集]

1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。就任直後にはクーデターが計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された[12]

1980年イラン・イラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。

1990年8月にクウェート侵攻後、1991年湾岸戦争となり敗北した。詳細は「イラク戦争の年表」を参照

イラク武装解除問題 (1991年 - 2003年)。en:Curveball (informant)による大量破壊兵器(英語版)情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。
バアス党政権崩壊後[ソースを編集]

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年9月)

連合国暫定当局(米英共同統治)[ソースを編集]

旧イラク共和国の滅亡後は、アメリカ・イギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治されることとなり(2003年4月21日 - 2004年6月28日)、正式な併合・編入こそ行われなかったものの実質的にアメリカ合衆国の海外領土に組み込まれた。イラク戦争終結後もスンニー・トライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが、2003年12月13日の赤い夜明け作戦(英語版)ではサッダーム・フセインダウルで拘束された。


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