イマヌエル・カント
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1740年にケーニヒスベルク大学に入学する。入学後次第にニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究した。

1746年、父の死去にともない大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究ではクヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時に哲学部にドイツ語の卒業論文『活力測定考』(1749刊行)を提出している。卒業後の7年間はカントにとっては苦しい時期で、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計をたてていた。

1755年春、『天界の一般的自然史と理論』を刊行するが、印刷中に出版社が倒産したため、極少数のみが公刊された。この論文でカントは太陽系星雲から生成されたと主張しており、この学説は1796年にラプラスが唱えた理論と似ていたため、19世紀にはカント・ラプラス理論と呼ばれた。4月にはケーニヒスベルク大学哲学部に哲学修士の学位取得のため、ラテン語論文『火について』を提出し、6月12日に修士学位を取得。9月27日、就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』で公開討議をおこない擁護に成功。冬学期より、同大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。カントの哲学者としての道のりは、『純粋理性批判』出版の以前と以後に区分され、前批判期と批判期と区別される。

1756年、恩師クヌッツェンの逝去(1751)により欠員が出た論理学形而上学教授職授の地位を得るため、『自然モナド論』を執筆。当時、正教授就任のためには少なくとも3つのラテン語論文を執筆し、公開討論審査で擁護しなければならなかった。4月10日に公開討論会がおこなわれ、擁護に成功する。しかし、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を開始し、財政的理由のため欠員補充をしない方針を打ち出したため、教授就任の話は白紙となった。

1764年、『美と崇高との感情性に関する観察』出版。直後の自家用本の書き込みによれば、カントは「何も知らない下層民を軽蔑していた」が、「ルソーがその私を正してくれた」。「私は人間性を敬うことを学ぶ」とある[3]。1765年、「1765-66年冬学期講義計画公告」のなかではじめて理性批判のアイデアが公にされる。また同年より始まったランベルトとの書簡の中では、自然哲学と実践哲学の形而上学的原理の構想が開陳され、自らの「あらゆる努力は、主として形而上学の本来的方法を、この方法を通じてまた全哲学の方法を目標としている」と述べられている[4]。1766年には、批判期の到来を予感させる『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版。同書では、スウェーデン視霊者神秘主義スヴェーデンボリが起こしてみせたと主張する超常現象を紹介すると同時に、現在の形而上学の粗野な方法論と来るべき展望について語られている。

1766年にケーニヒスベルク王立図書館副司書官に就任し、また博物美術標本室監督も兼任していたカントだったが、1769年にエアランゲン大学の論理学・形而上学教授に招聘されるが固辞、また1770年にはイェナ大学から哲学教授職への就任を打診されているが、これも辞退、最終的に1770年3月、46歳の時に、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授に任命された。同年8月11日には正教授就任論文『可感界と可想界の形式と原理』が公開審査にかけられ、遅くとも9月には出版。同書は「この後十年あまりにわたる沈黙と模索の期間をへて公にされることになる『純粋理性批判』に直接間接につながってゆく重要な構想のめばえを多く含むものであり、これを契機に〔…〕人間理性の限界の学としての形而上学という構想は、たんなる漠然とした模索の段階を脱して、着実な実現の緒についたといっても過言ではない」[5]。後にこの時代を振り返ったカントは、1769年に「大きな光」が与えられたと述べており[6]、それは一般的に空間と時間の観念性の発見であると考えられている。

『純粋理性批判』が出版されるまでの十年近い間は、先述のように「沈黙と模索の期間」であった。しかしその間、カントが机の前で沈思黙考し続けたと考えるわけにはいかない。むしろ大学業務は多忙になっていったと言えるだろう。1772年からは人間学講義が開講され、1776年には哲学部長に就任、同年夏学期の授業時間は週16時間にのぼっている。1779年冬学期には二度目の学部長就任、1780年にはケーニヒスベルク大学評議会会員となっている。そして1781年、カントの主著『純粋理性批判』がハレのハルトクノッホ書店より出版されることになった(以下『純理』と略記)。
批判期"Immanuel Kant and Guests" Emil Doerstling (1892/93)

今でこそ『純理』は近代哲学の基礎と目されることも多いが、この書物がすぐに哲学界を驚愕させ、思考の地平を一変させたと考えることはできない。『純理』はすぐに上梓されたが、反響はほとんどなく、売上も芳しくなかった。同時代の哲学者ハーマンメンデルスゾーンにはもっぱら不評だったと言われている。そのうえ、1782年に雑誌『ゲッティンゲン学報付録』に出た匿名書評ではカントの思想がバークリ観念論と同一視されてしまっていた[注釈 1]。そのためカントは翌1783年に出版した『プロレゴーメナ』や『純理』第2版「観念論反駁」の中で、こうした嫌疑をはらさざるをえなかった。同時代人の第一印象では、カントはバークリやヒュームと同様の懐疑論者とみなされたのである。

批判哲学のプロジェクトは『純理』以降、自然学・実践哲学(道徳論・法論)・美学歴史哲学・宗教へと多岐にわたって展開される。とりわけ『純理』と『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)を合わせた三つの書物は、慣例として「三批判書」と総称され、それぞれ『第一批判』、『第二批判』、『第三批判』と称されることもある。自然学分野は『自然科学の形而上学的原理』(1786)や『判断力批判』第二部の中で展開され、実践哲学は『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)や『実践理性批判』(1788)、『人倫の形而上学』(1797)が主著となっている。美学については、同時代のバウムガルテンの影響を受けつつ大きく議論を展開させた『判断力批判』第一部が読まれなければならない。

批判期以降、カントは様々な論争に巻き込まれ、また自ら論争に介入していった。


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