イヘ・フレー
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]
1720年 セゲルトゥ(Seger-tu, 色格爾図)に駐錫[3]
1724年 Ughtughal-Jirghalang(烏克図?勒-吉爾?朗)の東に駐錫[4]
その後 伊崩に移動(1727年にはすでに移動完了)[5]
1729年 Kujartu-Bulung(胡札爾図)およびジャルガラント(吉爾?朗図)に駐錫、ついでBurghaltai(布爾?勒台)に移動[6]
1732年 ションノール(雄努爾)の地に駐錫[7]
1733年 テレルジ(特爾勒済)の地に駐錫[7]
1735年 オリヤスタイ(烏里牙蘇台)の地に駐錫[7]
1736年 マンダル(曼答勒)の地に駐錫[7]
1740年 Khangjil(洪済勒)の地に駐錫[8]
1742年 Odelge(斡得勒格)の地に駐錫。セルべ川(色勒卜)河畔に移動[7]
1756年 オリヤスタイ(烏里牙蘇台)の地に移動[7]
1762年 セレンゲ(色勒卜)河畔に移動[9]
1772年 マンダル(曼答勒)の地に駐錫[10]
1778年 セルベ川河岸に定着[11]
1778年以降、イフ・フレーの大規模な移動は行われなくなる[12]
1839年 トーラ川北岸へ移動[13]
1855年 再びセルベ河岸に移動[13]
脚注^ 佐藤, 2009, p.10, p.36
^ Rib-gejai[~kandan-son-dob]-ling, 札奇斯欽, 1978, p.620
^ 札奇斯欽, 1978, p.630
^ 札奇斯欽, 1978, p.635
^ 札奇斯欽, 1978, pp.635-636
^ 札奇斯欽, 1978, p.637
^ a b c d e f 札奇斯欽, 1978, p.638
^ 札奇斯欽, 1978, p.640
^ 札奇斯欽, 1978, p.648
^ 札奇斯欽, 1978, p.651
^ 佐藤, 2009, p.10
^ 札奇斯欽, 1978, p.657
^ a b 佐藤, 2009, p.43
参考文献
札奇斯欽『蒙古與西藏歴史關係之研究』正中書局、1978年
佐藤憲行『清代ハルハ・モンゴルの都市に関する研究―18世紀末から19世紀半ばのフレーを例に』学術出版会、2009年 ISBN 978-4284102070
記事の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶしWikipedia
Size:9852 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef