イブン・スィーナー
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彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり[18][27]、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた[7][18][11][27]

イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している[16][28]。勉強の疲れがたまった時にはワインを飲んで気分を回復させ[29]、後年にはワインを詠った詩をしたためた[30]
サーマーン朝の滅亡と放浪の始まり

イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった[23]。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世(英語版)の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された[28][31][32]。図書館には希書が多く所蔵され、その中にはギリシャ語の文献も含まれていた[28]。イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し[33]、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至る[20]。図書館の蔵書はイブン・スィーナーの知識を深める上で大きな役割を果たした[34]。間も無く図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った[35]。18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、イブン・スィーナーは最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた[25]

999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝カラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために[25]全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し[25]、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが[36]、その死のために生計を立てていくことが困難になる[6]。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか[35]、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった[37]

イブン・スィーナーはホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する[36]。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った[38]。ビールーニーとのやり取りは『問答集』という書物に記録されており、その中では若年期のイブン・スィーナーの知見を垣間見ることができる[39]

1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードがイブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む[38]。マームーン2世はガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった[40]。ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した[41]
ブワイフ朝への仕官

ニーシャープールを経て[42]、イブン・スィーナーは放浪の末にカスピ海近くのジュルジャーン(ゴルガーン)に居を定める[33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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