イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している[16][28]。勉強の疲れがたまった時にはワインを飲んで気分を回復させ[29]、後年にはワインを詠った詩をしたためた[30]。 イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった[23]。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世
サーマーン朝の滅亡と放浪の始まり
999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために[25]全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し[25]、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが[36]、その死のために生計を立てていくことが困難になる[6]。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか[35]、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった[37]。
イブン・スィーナーはホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する[36]。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った[38]。ビールーニーとのやり取りは『問答集』という書物に記録されており、その中では若年期のイブン・スィーナーの知見を垣間見ることができる[39]。
1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードがイブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む[38]。マームーン2世はガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった[40]。ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した[41]。 ニーシャープールを経て[42]、イブン・スィーナーは放浪の末にカスピ海近くのジュルジャーン(ゴルガーン)に居を定める[33]。
ブワイフ朝への仕官