イブン・スィーナーは、980年8月末にサーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として[13]、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれる[14][15]。5歳のときに一家はブハラに移住し[16][17]、イブン・スィーナーはブハラの私塾に入れられた[18]。
イブン・スィーナーは幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという[19]。イブン・スィーナーは父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び[20]、ホラズム地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ[18]。ナティリからユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を学び[18][21]、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った[20]。しかし、イブン・スィーナーが読んでいた書籍は受験参考書のような入門用の啓蒙書であり、原典の逐語訳とは大きく内容が異なっていた[22]。
その後ジュルジャーン出身のキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び[11]、16歳の時にはすでに患者を診療していた[20][23]。後年、イブン・スィーナーは医学について「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得することができた」と自伝で述懐した[21]。とはいえ、この時イブン・スィーナーが使用していたテキストもヒポクラテスやガレノスの著書の逐語訳ではなく、ダイジェストともいえる家庭医学の指南書であり、後年にイブン・スィーナーは医学の奥深さを知ることになる[24]。
しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている[7][18][25]。ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した[18][26]。彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり[18][27]、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた[7][18][11][27]。
イブン・スィーナーは幼少期について、1日の全てを学習に費やし、不明な点があれば体を清めて神に祈ったことを自伝で回想している[16][28]。