イブン・アル=ハティーブ
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南アラビアのイエメンアラブ族を祖とし、一族の祖先は8世紀にイベリア半島に移住した[2]
生涯

グラナダ近郊の都市ロハで生まれ、グラナダで学問を修めた。

1340年に父が戦死した後ユースフ1世に書記官に任命され、1349年に宰相(ワズィール)イブン・ジャイヤーブがペストで病死すると後任の宰相に任ぜられた[2]。ムハンマド5世の治世でも引き続き宰相職を務めるが、1359年8月に起きたクーデターによってムハンマド5世が廃位されると、国政の中心にあったアル=ハティーブも反乱者によって投獄される。マリーン朝スルタン・アブー・サーリムの仲介によって解放された後[3]、ムハンマド5世と共にモロッコフェズに亡命した。亡命中に歴史家イブン・ハルドゥーンと交流を持ち、復職後に彼のグラナダ移住を取り計らった。

ムハンマド5世が復位すると彼も復職し、フェズの宮廷で孤立したハルドゥーンがグラナダに移住した際にはムハンマド5世と共に彼を歓迎した。しかし、ハルドゥーンを快く思わない廷臣の讒言、ムハンマド5世の教育方針の不一致によってハルドゥーンとの仲は遠いものになり、彼はハルドゥーンが自発的に宮廷を離れるように仕向けた。ハルドゥーンがビジャーヤハフス朝の王子の元に去ると、イブン・アル=ハティーブは改めて友好関係を築こうと努めてハルドゥーンに数度手紙を送るが、両者の関係は完全に修復されなかった[4]

ハルドゥーンが去った後、イブン・アル=ハティーブはムハンマド5世の信任を一身に集めるようになると、他の廷臣は彼を陥れようと陰謀を巡らせる。宮廷内の陰謀に気が付いたイブン・アル=ハティーブはマリーン朝のスルタン・アブド・アル=アズィーズ1世を頼って1371年から1372年の間にトレムセンに亡命するが、廷臣たちは彼を裏切り者と非難し、ムハンマド5世も彼への疑念をつのらせるようになった。マリーン朝ヘイブン・アル=ハティーブの引き渡しを要求する使者が派遣され、アブド・アル=アズィーズは彼の引き渡しを拒んだが、政変によってムハンマド5世と密約を交わしたアブー・アル=アッバース・アフマドが即位すると、彼はグラナダに召喚された。グラナダで宗教裁判にかけられ、判決が出る前に獄中で斬殺された[5]

歴史、地理、詩、医学の分野において60余りの著作を残し[2]、代表作に『グラナダ史』がある。また、行政の実務においても公文書の書式に改良を加える実績を挙げた[6]
関連項目

イブン・バットゥータ - イブン・バットゥータの1355年以降の生涯はほとんど知られていないが[7]、イブン・アル=ハティーブは、イブン・バットゥータがラバト近郊のターマスナーで法官のムタワッリー(意見のまとめ役)を務め、1368年/69年に在職中に没したことを伝えている[8]

脚注^ 私市「イブン・アルハティーブ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録
^ a b c 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、105頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、96頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、108頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、110頁
^ 森本『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫)、106頁
^ 家島 2013, p. 29
^ 家島 2013, pp. 29?30

参考文献

私市正年「イブン・アルハティーブ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 2001年10月)

森本公誠『イブン=ハルドゥーン』(講談社学術文庫, 講談社, 2011年6月)

家島彦一訳注『大旅行記』全8巻、イブン・ジュザイイ編 平凡社東洋文庫

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