イフワーン派
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彼は1892年に帰国し、河州で後に「十大ハッジ」や「十大アホン」と呼ばれる門宦やカディーム派のアホンらと共にマッカから持ち帰ったワッハーブ派の経典に基づいて議論を行い、自分たちの主張を以下の「十大綱領」として定めた[8]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}(1)集団でクルアーンを唱えてはならず、一人だけが唱え、他の人はこれを聞くだけである。
(2)大声で主を讃えない。
(3)ドゥアーを多くはしない[注 1]
(4)ゴンバイを参拝しない[注 2]
(5)アホンに「死者の贖罪の儀式」を依頼しない。
(6)故人の忌日を記念しない。
(7)クルアーンの読誦によっては贖罪されない
(8)タイタイウォルの法事(アマル)を行わない[注 3]
(9)ハオコンに対してはションハイラ(手端 ・手段)を使う[注 4]
(10)アマルは自分で行い、他の人が代行することはいけない。クルアーンは自分で唱えるべきで、他の人が変わって唱えるのは良くない。—十大綱領[11]

その後、馬万福は「全てはクルアーンに帰れ」「経典に基づいて習俗を改める」などと唱え、十大ハッジらと共に「イフワーン」を結成して宗教改革を開始した。ここにイフワーン派が形成された[6][11]

イフワーン派は儀式の簡略化や宗教負担の軽減を訴え、また、当時の中国におけるイスラームはパンゼーの乱などの蜂起の失敗で打撃を受けており、ムスリム民衆が精神的な安寧を求めていたことで信徒を増やした[12]。その一方でカディーム派を「老教」と見なしたうえで「歪教」「異端」「外道」と痛烈に批判しており、旧来の教派との軋轢が生まれた[11]

1895年にはフフィーヤの教派争いを原因として再びムスリムによる反乱が発生した。馬万福はイフワーン派の信徒に蜂起を呼び掛け、自らもこの反乱に参加した。しかし、ほどなくして馬万福は軍閥の馬安良に連絡を取り、降伏した。馬万福は反乱が鎮圧された後、清朝政府に追われたが、馬安良を通じてその罪を取り消された。その後、馬万福は馬安良の故郷である漠泥溝を訪れ、馬安良の弟の馬国良の支持を得てイフワーン派を広めた[13][6]。彼はイフワーン派の主張を系統的に記した『布哈里喧徳』を編集し、この中で五行について厳格に規定した。しかしこれは20部あまりしか刻印されず、馬安良の反対によって発行が禁止され刻印も破棄された[14]

1906年、馬万福は河州でイフワーン派の信徒およそ100人を集めて「イフワーン派を以て教派と門宦を統一する」「教派のために血を流し犠牲になるのは殉教者である」と檄を飛ばし、これを恐れた他の教派によって総督に訴えられ、各地を転々としながら布教活動を続けた。馬万福は1914年ごろから新疆で布教を行っていたが、1917年、彼は新疆総督であった楊増新の命令によって捕らえられ、甘粛へ護送されている所を軍閥の馬麒によって救出された[15][16]
軍閥の庇護

臨夏の馬安良・馬国良兄弟の軍閥と覇権を争っていた馬麒は影響力のある教派による宗教的な支柱を必要としていた[15]。そこで彼はイフワーン派を支持して他の教派や門宦を抑え青海を支配することをはかった。1922年には青海に「寧海回教促進会」を設立し、イフワーン派のアホンの育成を開始した。1929年に馬麒が死去すると馬麒の弟である馬麟とその息子である馬歩芳が軍閥の支配権を継承し、馬麒と同様にイフワーン派を擁護した[17]。こうした強力な保護を受けたイフワーン派は青海の国教としての扱いを受けることとなった[15]

これまで圧迫を受けてきたイフワーン派は一転して他教派を圧迫し、改宗を強制できる立場に変わった[15]。寧海回教促進会はアホンを育成するほか各地のモスクにアホンを送り改宗を強制していた。そのために1923年には肉親同士の殺し合いが起きたという[18]。1936年に馬歩芳が青海省の主席に就任した際にはイフワーン派への強制改宗が行われた[17]。彼は1939年には青海回教教育促進会会長に就任し、その職権を利用して青海省のアホンをことごとくイフワーン派のアホンに変えた[18]。1940年には馬歩芳は、イフワーン派への改宗を拒絶し馬歩芳勢力の軍人を殺害した河州にある村を攻撃し、村人側に150人以上の犠牲者が出た[19]。1949年までに甘粛省の臨夏では16あったモスクの内12のモスクがイフワーン派に強制改宗させられた[17]

イフワーン派は青海や甘粛に限らず寧夏でもまた布教活動を行った。当初はカディーム派の抵抗に遭って死者が出たり、門宦であるジャフリーヤによってアホンが誘拐されたりしたが、寧夏出身のアホンである虎嵩山によって1930年代までに寧夏の大部分に広まった。しかし1980年代の信徒数は十数万人で、カディーム派とジャフリーヤに及ばないという[18]
分裂「サラフィーヤ派」も参照

1936年、イフワーン派のアホンだった馬得宝がマッカ巡礼に赴いた際にワッハーブ派の典籍を中国に持ち帰り、これを研究して新たな教えを伝授し始めた。これはイフワーン派内で論争を引き起こし、1937年にはイフワーン派は、馬万福からの教えを堅持する「蘇派」と馬得宝の新たな教えに従う「白派」ことサラフィーヤ派に分裂した[20]丸山 (2001)によると、サラフィーヤ派の信者数は1000戸ほどだという[21]
現在まで

2004年時点でイフワーン派の信者の数は100万人以上で、カディーム派に次ぐ信者を抱えている[3]


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