ウマイヤ朝への敵対を理由に、イバード派は740年代にヒジャズ地方から始まった武装蜂起を試みたが、逆に第14代ウマイヤ朝カリフのマルワーン2世が4000人強の軍隊を率いて、最初にメッカ、その後イエメンのサナアでイバード派を根絶し、最後にハドラマウト西部のシバームで包囲した[9]。しかし、シリアの中心部にイバード派が残ったことにより、ウマイヤ朝はイバード派との和平を余儀なくされ、宗派はその後4年間シバームにコミュニティを残し、オマーンのイバード派当局に引き続き税金を払うことが許された[9]。ウマイヤ朝の軍人ハッジャージ・イブン・ユースフが、ハワーリジュ派への対抗としてイバード派を支持したため、マルワーン2世の死後、ジャービル・イブン・ザイドはユースフとの友好を維持した。しかし、イブン・ザイドはユースフのスパイの暗殺を命じ、それと共に多くのイバード派は反乱してオマーンに追放された[5]。
また、8世紀にはイバード派はオマーンの内陸部にイマームを擁立した。それは、規則が継承されたスンナ派とシーア派の王朝とは対照的に選出されたものであり[2][12]、これらのイマームは政治的、精神的、軍事的機能を発揮した[13]。
10世紀に入ると、イバード派はシンド、ホラーサーン、ハドラマウト、ドファール、マスカット、ナフサ山地、ゲシュム島に広がっていた。 13世紀までには、アンダルス、シチリア、ムザブ、そしてサヘル地域の西部にも宗派が存在していた。シバームの最後のイバード派は、12世紀のスライフ朝によって追放された[7]。 14世紀、歴史家のイブン・ハルドゥーンは、ハドラマウトのイバード派の影響の痕跡について言及したが、イバード派は現在この地域には存在しない[14]。 イバード派の国では、主流のイスラームの宗派に先行して興ったという理由で、イバード派はイスラームの初期の、そして非常に正統的な解釈であると考えられている[2]。 イバード派はイスラームの他宗派といくつかの教義上の違いを持っている。
教義
他宗派との教義上の違い
ムゥタズィラ派やシーア派と同様に、最後の審判の際にアッラーはムスリムに対して自身の姿を示さないと考える。一方、スンナ派は、ムスリムが審判の日にアッラーと会うと考えている[15]。
ムゥタズィラ派と同様に、クルアーンはある時点でアッラーによって創造されたと考える[16]。一方、スンナ派はアッバース朝第7代カリフマアムーンの異端審問におけるイブン・ハンバルに例示されるように、クルアーンは神と共に永遠であると考える[17]。
ムゥタズィラ派やシーア派と同様に、クルアーンのアッラーへの擬人化された言及を比喩として解釈する[16]。
予定説についての見解はスンナ派と同様である[16]。
イスラーム世界の指導者が1人である必要はなく、その職に適した人物が1人もいなければ、ウンマは自治を行うことができる[9][11]。これはスンナ派のカリフ制、シーア派のイマーム制の両方と異なる[10][18][19]。