イネ_(ウェセックス王)
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イネが当初サリーを支配下に置いていたという証拠は彼の法がこの地域に公布されていた事から分かり、この法でロンドン司教のエオルチェンワルドを「我が司教」と言及している事から窺える[9][19]

しかしながら、その後イネはサリーを失う。704年ないし705年に書かれたロンドン司教ウェルドヘレからカンタベリー司教ベルトワルドへの手紙にその事を間接的に説明している箇所が見受けられる。その手紙でウェルドヘレは「争いと不協和」が「西サクソン人の王と我が地の王たちとの間に」起こっていると言及され、ブレンドフォードにてこの問題を解決するために話し合いが行われる予定であったらしい[15][20]。このウェルドヘレの言う「我が地の王たち」とは エセックス王シジェエルドと同じく共同統治している王スウェフレドの事であり、この問題の原因とは東サクソンが西サクソンから追放された者たちの受け入れを拒絶している事からであった。イネは東サクソンとは和議を結んでいたが、追放者された者を追い返すという条件の下であった。

上記の点で注意すべき事は

サリーを含むロンドン司教区を支配するロンドン司教ウェルドヘレが東サクソン王を「我が地の王」と呼ぶ。

我々の王たち(=東サクソン)は西サクソンからの追放者を拒絶している。

という事はこの手紙が書かれた704年ないし705年の時点でサリー地方の支配権は西サクソンの手から離れていた事になる[15]
ドゥムノニア

アングロサクソン年代記によると、710年にイネとノトヘルムはジェラントと戦ったとされる。後世の記録として12世紀の修道士ウースターのジョンはこの戦いでジェラントは殺されたと書き記している[21]。このイネの進撃によって西サクソンは現在で言うデヴォンの支配を手にする事ができ、新たにドゥムノニアとの境がタマー川となった[15]10世紀の書物「カンブリア年代記によると[22]722年にブリトン人がヘヒルの戦いにて敵を打ち負かしたと書かれている。ここで書かれている「敵」とはイネの勢力の事を指しているが、その戦いの場所は定かになっていない。現在の研究では戦場はデヴォンかコーンウォールのどこかであろうと考えられている[9][23]
マーシア

715年、イネはマーシア王チェオルレッドとウォーデンズバロウ(Woden's Barrow)[24]にて戦った事が分かっているが、勝敗は分かってはいない。この場所は現在ではウィルトシャーのアルトン修道院付近にあるアダムズグレイブ(Adam's Grave)と呼ばれている[25]。テムズ川流域はもともと西サクソン父祖伝来の地でありながらマーシアに奪われ失地となっていたが、イネの時代にある程度の失地回復が見受けられている。流域北部は回復できていなかった可能性があるが、南部流域は奪回し支配下に置いていた事は分かっており、実際に687年の勅書において彼はストリートレイの教会にテムズ川流域のバジルトン付近の土地の寄進を行っている[9][26]
王族内の軋轢

アングロサクソン年代記によると、721年イネはキュネウルフ(Cynewulf)という者を誅したと伝えられるが、この者がどのような素性かは知られてはいない。しかしながらその名からウェセックスの王族につながるものではないかと推測されている。王族間での軋轢がその後すぐに現れている。年代記の722年にイネの妃エゼルブルグ(Athelburg)がタウントンを破壊、この都市はイネの統治したばかりの頃に築いたものであった[1]
国内統治

イネの統治で見られる事はまずエアルドルマンの官職があり、それがウェセックスの各州に配置された事が挙げられる。無論従来のウェセックス国内の慣習が影響を及ぼしてはいると考えうるものの、イネの時代になって現在のハンプシャーウィルトシャーサマーセットデヴォンドーセットに行政区分された可能性がある[14]。またこのような区分けがウェセックスの各州に王族の一員が赴任され始めた事から始まった事から発している可能性も指摘されている[5]

710年、イネの統治の中期に相当する時期、交易の中心地としてアイチェン川西岸(現在ではサウザンプトンの一部区域)にハムウィッチ(Hamwic)が建設された。この地でガラスの器、動物の骨が見つけられている事から積極的な交易があった事が示唆されている。さらには輸入された品にはひき臼の石、砥石、焼き物が見受けられ、当時の貨幣の中にはフリジア人の中で流通していた貨幣も含まれていた。町の交易品の中には布地作り、鍛冶、金細工など専門技術を要する加工品も活動していた。イネがこのハムウィッチから取り分をもらっていたかは分かっていないが、彼自身が興味を示したもの、例えば奢侈品などはここから輸入されており、恐らくはそれを扱う商人たちは王族の保護を受けていたものと思われている。ハムウィッチの人口は5,000人と推測され、これだけの人数をまかなう食料と住居を手配できるのはこの時代には王以外はあり得ない事から、イネが関与していたものと考えられている[27][28]

700年ほどからの交易の拡大はちょうどこの地域の通貨流通がテムズ渓谷上流へと拡大した時期と重なる[15]。最初に西サクソン人の間で貨幣が造幣されたのはイネの治世においてと考えられている。しかしながらこの当時の通貨には治めている王は記されてはおらず、彼の名前を刻印したものは発見されてはいない[14]
法制ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ校所蔵MS173写本の最初の頁。この写本に現存するイネの法文が記載されている。

アングロサクソン社会で最初に成文法として一番古いものは602年から603年に公布されたケント王国エゼルベルトの治世( - 616年)のものが現存している[29]。また670年代から680年代にかけて別の法令がケント王国のフロトヘレとケント王エドリッチの名前で公布されており、その次に早く法令を作った王は西サクソン王国のイネとケント王国のウィフトレドになる[30]

しかしながら、ウィフトレドとイネが公布した法の詳細ははっきりとはしていないが、ウィフトレドは695年9月5日付で公布し[31]、イネの法はそれより少し早く公布されたものとほぼ信じられている[9]。この時までにイネはウィフトレドと前の反乱で殺された前王の兄弟ムルの賠償を巡って和議を結んだばかりで、この両者がある程度協力してそれぞれの法を制定したものと考えられている。加えて時期的に偶然にもこの両者がそれぞれ制定した法の中に内容がほとんど一致する項目が見受けられている[32]。また両者が法文を制定する際に協力したと裏付けられる箇所として、例えばイネの法に西サクソン方言で「高貴な」という意味の「gesith」という単語が使われているが、ウィフトレドの法にその箇所にケントの言葉で同様の意味の「eorlcund」という単語が当てはめられている。憶測としてではあるが、イネとウィフリドはこの法の制定を特権者としての振る舞いとして示し、紛争の後のそれぞれの権威を回復しようと試みたものとも考えられている。

イネの法制は現存している理由はアルフレッド大王が彼の法文に注釈を加えていたからである[33]。最も古く現存している法文はケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジに所蔵されるMS173写本で、また唯一の現存する完全な原文が残っている。ここにはアルフレッド大王とイネの法文、それに最古の現存するアングロサクソン年代記の原文が書かれている。さらに一部ではあるが2つの原文が現存する。ひとつは大英図書館所蔵のMS Cotton B xi写本、しかしながら1731年のアシュバーナムハウスの火災によりこの写本のかなりの部分が消失してしまい、現在ではイネの法典の66章から76章2項までが現存しているのみである。もうひとつは大英博物館所蔵のMS Burney 277写本がある[30]


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