1979年に、反体制派のウガンダ民族解放軍
(英語版)(UNLA)に攻撃された上に、軍内部の離反もあり失脚し、タンザニア侵攻の際に軍事作戦に協力していたリビアに当初は逃げるもカッザーフィーすらもアミンのかつての暴虐ぶりを知るや敬遠するようになり[28]、翌1980年には敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件に生活援助を申し出たサウジアラビアへの亡命を許された[29][30]。サウジアラビアに亡命後は何度かウガンダへの帰国を試みるもことごとく失敗し[29]、表舞台に姿を見せることもなくなり、2003年8月16日にジッダの病院で多臓器不全による合併症で死去した。
エピソード
学歴がなく、大学すら出ていないため終生貨幣経済や金銭に関して疎かった。若い頃、銀行員が小切手について「額とサインを書けば使用できる」と説明したのを「いくらでも使用できる」と勘違いして大量発行してもらい、数日後に使い切ると再び発行を要求したことが上司に知られ、支払いを取り消されたことがあった。大統領時代も浪費癖を側近に諫められると「それなら(紙幣を)刷ればいいじゃないか」と大真面目に答えたという。
最初の夫人となったマルヤム・アミンとは、1962年に結婚。夫についてマルヤムは、皿洗いや床掃除を手伝うなど優しく慈悲深かったが、ウガンダを支配するようになると人が変わってしまったと証言している。また、二人の間にできた6人の子供の親権を1973年に取り上げられ、以降は子供たちが行方不明になっていると語っている[31]。
「虐殺した政敵の肉を食べた」などの噂を立てられた結果、「人食い大統領」というニックネームもつけられたが、実際のアミンは菜食主義者で、肉は鶏肉しか口にしたことがなかったといわれている[32]。
ボクシングのヘビー級チャンピオンになった経歴から、アントニオ猪木との異種格闘技戦の計画が浮上したことがある。仕掛け人は康芳夫。アミンは1979年1月にこの猪木戦を承諾し特別レフェリーにモハメド・アリを招聘し開催時期まで決まりかけていたが、結局、反体制派クーデターの影響でお流れになった。
ユーモア精神の持ち主で、1974年に開かれたアフリカ統一機構の首脳会議での演説でも大いにジョークを連発した。その際、激しい対立関係にあったタンザニアの大統領、ニエレレも握手を求めにきたアミンの手を思わず握り返してしまったという。
さだまさしは名前の響きが面白いと思い、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」(アルバム『夢供養』収録)に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」と名づけた。さらに、さだのファンだった岡村孝子は、この名前を取って自らのユニット名を「あみん」とした。
ウガンダ・トラは、アミンと容姿が似ていたことからこの芸名がつけられた。
関連作品
小説
『スコットランドの黒い王様』(原題:The Last King of Scotland