また、アジア人追放事件(ほとんどは植民地時代に入植したグジャラート州などの出身の印僑であり、これに伴いインドともウガンダは国交断絶した[9])を起こしてアミンはアジア人やヨーロッパ人の所有する事業を自分の支持者に与えるも杜撰な経営で産業は崩壊した[10]。経済は荒廃し、賃金と給料は9割も低下した[11]。
アミンは右腕のアイザック・マリヤムング(英語版)など彼自身の部族であるカクワ族出身者をスーダン人、ヌビア人と共に重用した。1977年までに、これらの3つの民族グループは高級軍人の60%と閣僚の75%を構成し、人口の5%にすぎないイスラム教徒はこれらの80%と87.5%を構成した。これはアミンが8回ものクーデターを切り抜けた理由ともされる[12]。
アミン政権時代の8年のうちにウガンダの自然環境や生態系は密輸業者とウガンダ軍兵士によって行われた広範囲にわたる密猟と森林伐採にさらされた。ウガンダでは、ゾウの75%、サイの98%、ワニの80%、ライオンとヒョウの80%などが失われた[11]。 このような政策を西側諸国から批判され、当初の西側寄りの姿勢を急変させて1972年にはイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し[13][9]、1973年にはアメリカ合衆国連邦政府も、アミンと距離を置くこととなった[14]。 アミンはアフリカにおける反欧米・反イスラエルの代表的存在のリビアのムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)と接近し[15][16][17][18]、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファート議長ともアミンの結婚式に立ち会うなど親しい仲であった[19]。1975年からはアフリカ統一機構議長を務めるものの、翌1976年に発生したエールフランス機ハイジャック事件における対応に失敗して国際的な批判を浴びただけでなく、イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦を招く結果となった。アミンは報復として、入院していた女性の人質(イスラエルとイギリスの二重国籍)一人、さらに在ウガンダのケニア人殺害を命じたため、イスラエルとイギリスとの関係をさらに悪化させることとなった。アミン(左)とモブツ(右)、1977年 当時冷戦下で西側諸国と対峙していたソビエト連邦はウガンダ最大の武器供給国であったが[20]、そのソ連に対しても挑戦的な態度をとることもあり、アンゴラ内戦をめぐっては一時的に外交関係が断絶したこともあった[21]。 ザイールの第一次シャバ紛争
近隣および西側諸国との対立
1978年に、オボテを保護していた隣国タンザニアのジュリウス・ニエレレと対立[24]していたことからタンザニアに侵攻するも失敗し、逆にタンザニア軍に首都のカンパラまで攻め込まれた(ウガンダ・タンザニア戦争)。リビアとPLOはウガンダを支援したが[25][26]、ソ連にとってアミンは手に余る存在であったためにソ連はタンザニアに反撃を受けるウガンダを支援しなかった[27]。
失脚