ケンペルは1689年から1691年の間、長崎の出島にいたが、その間に中村タ斎『訓蒙図彙』(1666年)の写本を2冊入手した[註 4][39]。ケンペルが得たイチョウに関する情報は『訓蒙図彙』2版 (1686)の「巻十八 果?」で書かれている[39]。ケンペルは日本語が読めなかったので、参照番号をそれぞれの枠に振った[39]。ケンペルのもつ写本の植物の項目の殆どには見出しの隣に2つ目の番号が振られていた[39]。ケンペルの所有していた写本では、イチョウの枝の図の横に269、漢字の見出しには34と番号が振られている[39]。多くの日本の文献は、助手の今村源右衛門から教わったと考えられるが、交易所の通訳であった馬田市郎兵衛、名村権八と楢林新右衛門もケンペルの植物学の研究に重要な影響を与えたことが、イギリスの医師でありこの時代随一の蒐集家であったハンス・スローンが保管していたケンペルの備忘録により分かっている[39]。これらの参照番号はケンペルが日本に滞在していた時の備忘録でも見られる[39]。Collectanea Japonica と題された手稿[40] には、『訓蒙図彙』の漢字の見出しがリスト化されているページがあり、34番目の見出しで “Ginkjo” もしくは “Ginkio” と書くべきところを、誤って“Ginkgo”と表記されている[39]。つまり、ケンペルの「日本の植物相」以降、現在まで引き継がれている “Ginkgo” という綴りは、ケンペルの郷里レムゴーでの誤植や誤解釈などの出版の際のミスではなく、日本でケンペル自身が書き記した綴りであったと考えられる[39][註 5]。
なお、Webster (1958)では ginkgo は、日本語の ginko, gingkoに由来するとしている[31] が、日本語の「銀杏」が「ギンコウ」と読む事実はない[註 6][註 7]。小西・南出 (2006)では中国語の銀杏(ぎんきょう)からとしている[33] が、この読みは日本語であり正しくない。
このケンペルの綴りが引き継がれて、カール・フォン・リンネは1771年、著書 Mantissa plantarum. Generum editionis VI. Et specierum editionis II でイチョウの属名をGinkgo として記載した[18][43]。Moule や Thommen は、Ginkyo bilobaに修正すべきだと主張し[44]、牧野(1988)[45] では、ケンペルの著書中ではkjoをkgoに書き誤ったのであり、直すならGinkjoであるというが、植物命名規則においては恣意的に学名を変更することはできないとされている[35]。1712年のケンペルのGinkgoという誤った綴りは命名規約上有効ではなく、それを引用した1771年のリンネの命名Ginkgo bilobaが命名上有効であり、リンネは誤植をしなかったため、訂正することができないと考えられる[35]。
ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りであり、通俗的にk と g を入れ替えてしばしば gingko と記される[31][33][35]。このほか、ゲーテは『西東詩集 (West-ostlicher Diwan)』「ズライカの書」(1819年)で、「銀杏の葉」Ginkgo bilobaという詩を綴っているが、ゲーテ全集初版以降、印刷では "Gingo biloba"と表記されている[35]。これはUnseld (1999)[46] によれば、ゲーテは科学者として学名 Ginkgo biloba を正しく認識していたが、詩人として Gingo という語を創作して付けたという[35]。 種小名の biloba はラテン語による造語で、「2つの裂片 (two lobes)」の意味であり、葉が大きく2浅裂することに由っている[7]。 英語では "maidenhair tree
種小名 biloba
英名
ほかにも fossil tree[10]、Japanese silver apricot[10]、baiguo[10]、yinhsing[10]などと呼ばれる。 漢名(異名)の「公孫樹」は長寿の木であり、祖父(公)が植えると孫が実(厳密には種子)を食べることができるという伝承に基づいている[8][25]。漢方(中国医学)では『日用本草』[註 8]にみられるように[29]、「白果(びゃっか[52]、はっか[25])」と呼ばれることが多い[11][25]。
その他漢名
分類と系統
分類学上の位置・イチョウ目 Ginkgoales