イタロ・バルボ
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1922年から、かつてドイツ領だったカメルーンはフランス領カメルーンと英領カメルーンという委任統治領になっていた。カメルーンの確保は大西洋に向いた良港の獲得を意味しており、ムッソリーニはイタリアのアフリカにおける植民地帝国の大きな一歩になると考えていた。カメルーン・スエズジブラルタルを合わせて確保できれば、南地中海沿岸部に一大植民地を形成する事が可能だった。故にチャド湖の獲得はアフリカの権益拡大において最初に目指されたのである。1934年1月1日トリポリタニアフェザーンなど北アフリカの植民地を糾合して属州リビアが成立、バルボはリビア総督を兼任した。

一方でリビア総督への就任は、政治的後継者を通り越してライバルとなりつつあったバルボにムッソリーニが危機感を抱いて、本土から遠ざけたかった為であるとも噂された。これはバルボが個人主義的で、他の党幹部と協調しない傾向があった事も影響していた。バルボとムッソリーニの対立を前に、ヨーロッパに比べてムッソリーニよりバルボが有名だったアメリカのタイム誌はムッソリーニを「バルボの国の独裁者」と皮肉る記事を掲載している。
アビシニア危機

1935年にアビシニア問題が悪化すると、バルボは英軍の参戦を危惧してエジプトとスーダンを攻撃する為の戦力を準備した。ムッソリーニが明確にエチオピアを征服する意図を明らかにすると、イタリアとイギリスの関係は実際に緊張した状態に入っていた。アビシニア問題に絡んでイギリスの権益と軍隊に対する防衛策として、イギリスは地中海海軍とエジプト駐留軍の増強を始めた。更にスエズ運河が封鎖されればそもそもエチオピアに陸軍を送り込めなくなると考えたバルボはリビアの戦力増強に努めた。こうした動きの背景にはムッソリーニに対して圧力を掛ける狙いもあった。

3個師団と700機の航空機が援軍として到来すると、バルボは著名な地理学者ラシロ・アルマシー(en:Laszlo Almasy)からエジプトとスーダンに進むことの実現可能性に関して調査を依頼したと言われる。1935年9月1日時点で地理的状況を把握した上で適切な軍配置を終了したバルボは、イギリス軍に対する奇襲攻撃を計画した。この時、イギリス情報部は怠慢から全くバルボの動きを把握せず、前線部隊に展開した英軍部隊は油断しきった状態にあった。しかしイギリスとの戦争を無謀と判断したムッソリーニは、ロンドンにバルボの部隊配置を教える事でバルボの行動を中止に追い込んだ。

その後、イタリア政府とイギリス政府の話し合いの結果として両国間でイタロ・アングロ協定(英伊協定)が締結され、一先ずアビシニア危機は遠ざかる事になった。
リビア統治

この時代、リビア方面軍のイタリア空軍機はエジプトやスーダン上空を飛行する事があった。イタリア人のパイロット達は飛行ルートや離着陸地点について熟知していた。1938年から1939年までバルボ自身もイタリア領東アフリカからリビアへの飛行を行っている。彼らはしばしば英領東アフリカとイタリア領東アフリカの国境近くの飛行ルートを飛ぶ事もあったという。ドイツ空軍エルンスト・ウーデットもバルボによる航空部隊の訓練に参加した事もあり、各国空軍との共同訓練も推進して空軍部隊の強化に勤しんだ。

内政面ではインフラの整備を進めて移民を呼び込む為の環境作りを進めたり、イスラム系住民へのファシズムの浸透を図ってのプロパガンダを行った。しかし人種主義的な政治政策には徹底して反対し、本国で可決されたユダヤ人を迫害する人種法に唯一公的な反対を行ったファシスト党の幹部でもあった。
第二次世界大戦

1939年ポーランド侵攻が開始されるとはっきりとバルボはナチズムへの嫌悪を示して、イギリスやフランスの宣戦行為を正当なものだとした上で、国際社会は一致してポーランドを救うべきだと発言した。彼は連合国からはファシスト党で最も高貴な人物だと賞賛された。ローマに一旦帰国したバルボはドイツへの追従を深めるムッソリーニを辛辣に批判して、かつてのムッソリーニがそうした様にイギリス・フランスとの同盟を主張した。ガレアッツォ・チアーノ外務大臣などの賛同者もいたものの、バルボの意見は少数派に過ぎなかった。ムッソリーニがドイツと鋼鉄条約を結んで資源の提供を開始した時、バルボは「彼らは進んでドイツ人の靴磨きになった」と述べている。

第二次世界大戦勃発時点でバルボはリビア総軍の司令官として、エジプト遠征の再開を命令された。バルボは状況の様々な変化を指摘して、合理的にエジプト遠征が今や勝機がほとんどない事とムッソリーニに通告したが、作戦は決定された。フランスが降伏するとフランス国境地帯の部隊が援軍として加わり、1940年7月に侵攻が開始される予定になっていた。
謎の死オルベテッロにあるバルボの墓

1940年6月28日、イギリス軍による空襲の数分後にリビアのトブルクの飛行場に着陸しようとしたバルボの乗るサヴォイア・マルケッティ SM.79に対し、イタリアの装甲巡洋艦サン・ジョルジョが対空攻撃を始め、続いて飛行場からも対空砲火があがった。そしてSM.79は撃墜され、バルボは死亡した。政府は同士討ちによる事故であると発表した。だが、バルボの家族などはムッソリーニの命令による暗殺であると強く信じた。バルボの遺体は1940年7月4日トリポリの外で火葬された。

ムッソリーニが次にトブルクを訪れた時、バルボの死んだ場所に行くのを拒否したことで暗殺説がより信じられるようになった。1997年のインタビューで、バルボの乗機を撃墜した人物は、イギリス軍のブリストル ブレニムによる攻撃後にバルボの乗機が太陽を背にして低空で進入してきたため敵機であると判断されただけだ、と述べた。しかし、議論はまだ続いている。

ムッソリーニが仮に暗殺を命令したとして、その理由については諸説が入り乱れている。その中でも会戦直前にフランス軍モロッコ司令官と会談したバルボが、そこで自身が「ドイツと同盟する事に反対している」と述べた上で、「ドイツ軍は新しい戦術で貴軍を短期間で降伏に追いやるだろう」と暗に助言したとの記録が残っており、この会談を敵への密通と判断したムッソリーニが暗殺を決断したとする説が有力視されている。
関連項目

ヘルマン・ゲーリング - 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の幹部にして、ドイツ空軍総司令官。戦後のニュルンベルク裁判により絞首刑の判決を言い渡され、執行前に服毒自殺。

参考文献

Michel Pratt
(), Italo Balbo, la traversee de l'Atlantique. 24 hydravions de l'Italie fasciste en Amerique. Editions Histoire Quebec, collection Federation Histoire Quebec, 2014.

外部リンク

Comando Supremo: Italo Balbo

Italo Balbo and the Sioux










ファシズム運動
影響

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国家有機体説

ナショナリズム

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it:Distributismo

en:Statism

起源

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it:Squadrismo

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