イタリア統一運動
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それぞれ、再び、昇る(発生する、立ち上がる)、事(-mentoは動作を名詞化する)を指し、リナシメント (Rinascimento:ri + nascere + mento)、すなわちルネサンスの「再び、生まれる、事」に対応する[6]

リソルジメントの起源については、統一直後はウィーン体制以降とする見方であったが、近現代のイタリア史の研究者の間では18世紀後半の啓蒙主義の時代にまで遡るとする解釈、またはフランス革命およびその後のナポレオンによるイタリア統治を出発点とする見方がなされている[5][7]。イタリア統一は1870年の普仏戦争の際のイタリア王国軍によるローマ占領でほぼ完了した[5][8]
背景

1796年のイタリア
  サルデーニャ王国  ジェノヴァ共和国  トレント司教領  ヴェネツィア共和国  パルマ公国  モデナ公国  ルッカ共和国  トスカーナ大公国  教皇国家  ナポリ=シチリア王国1810年のイタリア
フランス帝国領および衛星国  フランス帝国直轄地  イタリア王国  ルッカ・エ・ピオンビーノ公国  ナポリ王国 フランス帝国勢力外  サルデーニャ王国  シチリア王国

中世以降のイタリア「イタリア戦争」も参照

5世紀西ローマ帝国の滅亡以来、イタリアとよばれた地域、つまりイタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分、サルデーニャシチリアなどの島々は、ゲルマン人東ローマ帝国イスラム勢力などの外来勢力に分割され、統治されてきた。

11世紀から13世紀にかけて、イタリアでは次第に都市国家(英語版)が発達するようになった[9]。この体制はルネサンス時代に絶頂に至るが、16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始めた[10]教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家神聖ローマ帝国スペインヴァロワ朝/ブルボン朝フランス)の代理戦争の場と化した。

18世紀に入るとフランス、ドイツイギリス啓蒙思想が高まり[11]、ピエモンテ公国をはじめとするイタリア諸国でも啓蒙主義改革が行われ、特にトスカーナ大公国ではヨーロッパで最も先進的な改革が実施されている[12]

18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国ジェノヴァ共和国、トレント司教領(英語版)、パルマ公国モデナ公国ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国サンマリノ共和国教皇国家そしてナポリシチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク帝国の支配下にあった。
ナポレオン体制「フランス革命戦争」および「ナポレオン戦争」も参照

1789年のフランス革命の勃発はイタリアの知識層にも影響を与え革命運動を活発化させ、革命家たちは「ジャコビーノ」(ジャコバン主義者)や「パトリオット」(愛国者)と呼ばれた[2][13]。2度にわたってイタリアに侵攻したナポレオンはオーストリア軍およびイタリア諸国軍を破って半島部を征服し、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合した。また、北東部から中部にはイタリア王国を建国させ養子のウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に任命し、南部のナポリ王国には親族(兄のジョゼフ・ボナパルト、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラ)を国王となし、フランス帝国衛星国とした。

ナポレオン覇権下のイタリアでは旧体制(アンシャン・レジーム)を撤廃すべく、行政・税制諸改革が行われ、ナポレオン法典が導入された[14][15]。この経験から、イタリア知識層の中に統一意識が芽生えるようになる[2]。その一方で、ブルジョワ層が目指す社会改革は、農民をはじめとする大衆の利益には必ずしもつながらず、強い抵抗を引き起こしている[2][16]

1813年から1814年のナポレオン体制の崩壊とともに、それまでナショナリズム感情を利用して王位を維持していたフランスの衛星国家では反政府蜂起が引き起こされた[17]。1814年にナポリ王のジョアシャン・ミュラ(ジョアッキーノ1世)はナポレオンを見限ってオーストリアと同盟し、イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネと敵対した[18]。ナポレオンが退位するとウジェーヌは領土をオーストリアに引き渡し、イタリア王国は崩壊した[19]

翌1815年に百日天下でナポレオンが復位するとミュラはナポレオンの側についてオーストリアに宣戦布告し、イタリアの自由主義者たちに外国勢力を駆逐してイタリア統一を成し遂げようと呼びかけたが、応じる者は少なく敗北して処刑されている[20][21]
ウィーン体制ウィーン会議
ジャン=バティスト・イザベイ画。1815年

ナポレオンの敗北後にオーストリアで開催されたウィーン会議1814年-1815年)では欧州大陸の再編が話し合われた。イタリアについてはナポレオン以前の諸国が再建され[nb 1]、列強国(特にオーストリア)の直接または間接的支配下に置かれた[22]

ウィーン体制下のイタリアでは、オーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、マッサ・カッラーラ公国(英語版)(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国、そして南イタリアにはブルボン家両シチリア王国が成立した[23]


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