イタリア統一運動
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この結果、国王フェルディナンド1世はスペイン憲法と同一の憲法の発布を余儀なくされた[42]。無血クーデターを成功させた革命派は新政府を組織して王国の半島部分を制圧する。

反乱はシチリア島に飛び火し、パレルモを中心に民衆暴動が発生した。シチリアの反乱勢力は独自の統治委員会を設置してナポリからの分離を要求したが、内部分裂から統一した行動が取れず、短期間でナポリ政府軍によって制圧された[43]

これらの事態を脅威と判断した神聖同盟の会議が開かれ、会議に招請された両シチリア王フェルディナンド1世が新政府を裏切って介入を要請したことにより、オーストリアは武力干渉を決定する[44]。ナポリの革命政府では内部対立が起きており[45]、ナポリ政府軍はオーストリア軍の侵攻に抵抗することができず壊滅してしまった[46]。フェルディナンド1世は憲法と議会を廃止し、革命家たちを迫害した[47]。南イタリアのカルボナリは衰退し、歴史家ミケーレ・アマーリを含むシチリアの革命支持者たちの多くが亡命を余儀なくされている。
ピエモンテ革命「ピエモンテ革命」も参照

サルデーニャ王国はウィーン会議によって旧ジェノバ共和国領を併合して領土を増やしており、その中心地はサルデーニャ島ではなく大陸部ピエモンテ地方のトリノにあり、ピエモンテ国家とも呼ばれる[48]。保守貴族層が支配するサルデーニャ王国では復古政府の成立以降、反動的政策が取られていた[49]。1821年3月にピエモンテのアレッサンドリアで蜂起したサントッレ・ディ・サンタローザを指導者とする自由主義将校団は憲法の制定とともに北イタリアからのオーストリアの排除を目標とした[50]。この革命にはフィリッポ・ブオナローティの秘密結社が関与している[51][52]。この蜂起で兵士たちはチザルピーナ共和国(ナポレオン体制下で短期間存在した共和国)の緑・白・赤の三色旗を用いた[53]

国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世カルロ・アルベルトを摂政に指名して退位し、カルロ・アルベルトは革命派将校に譲歩して憲法制定に同意した[51]。だが、第一王位継承者のカルロ・フェリーチェはこれを認めず、軍隊を動員するとともに神聖同盟に援助を求めた[51]。オーストリア軍がピエモンテに侵攻し、一般大衆からの支持を欠いた革命は1カ月程で鎮圧された[54]。サンタローザをはじめとするピエモンテの革命家たちは亡命し[55]、帰国して即位したカルロ・フェリーチェは反動的な統治を行うことになる[56]
反動弾圧の時代開明貴族としてフェデラーティを指揮したフェデリーコ・コンファロニエリ

両シチリア王国そしてピエモンテでの革命瓦解の後、イタリアは反動の時代を迎えた。シチリア島では革命以前よりもカルボナリの活動が活発化したが、激しい弾圧が加えられてそれは当地域の風土的産物とも言える山賊に追い込まれるように溶け込んでいった[57]1828年南イタリアではフィラデルフのアントニオ・マリア・デ・ルカ主導で「チレントの暴動 (1828年)(イタリア語版)」が起こされるが[58]、これも両シチリア王国の警察大臣フランチェスコ・サヴェーリオ・デル・カレット(イタリア語版)によってすぐさま弾圧された[59]

サルデーニャ王国でもシチリア島ほどではないが政治弾圧が実施され、のちに穏健派の代表格となるチェザーレ・バルボのような者でさえ亡命を余儀なくされた[60]教皇国家では極右カトリック「ヅェランティ(英語版)」の首領であったレオ12世教皇に即位し政府が右翼系結社サンフェディスティと結んでカルボナリを弾圧。枢機卿アゴスティーノ・リヴァローラ(イタリア語版)がその弾圧を主導してアンジェロ・タルギーニ(イタリア語版)やレオニーダ・モンタナーリ(イタリア語版)が処刑された。モデナ公国でも弾圧が苛烈化し、ジュゼッペ・アンドレーリオ(イタリア語版)の処刑を皮切りにアントニオ・パニッツィなど多くの愛国者が亡命を余儀なくされた[61]。だがこの反動の時代で注目すべきは、オーストリア帝国支配下のロンバルド=ヴェネト王国であった[60]

ロンバルド=ヴェネト王国は初め高圧的な思想統制は行われず、代わりに政府の手で文学者たちに『ビブリオテーカ=イタリアーナ』誌を刊行させ、この中でのドイツ文学の紹介を通じて緩やかな文化的統合、イタリア文化への固執を止めさせることを狙った[60]。しかしこれは却って一部文学者の反発を招き、1818年には本誌を脱退したシルヴィオ・ペッリコジョバンニ・ベルシェが中心となって『コンチリアトーレ』誌が創刊された。ロンバルディアの開明貴族として秘密結社フェデラーティを指揮していたフェデリーコ・コンファロニエリや起業家ルイージ・ポロ・ランベルテンギが創刊を支援した同誌は、内容は決して革命的ではなかったもののわずか一年で発刊を禁止された[62]

というのも1818年末、コンチリアトーレに協力していたピエーロ・マロンチェッリが弟に宛てた手紙が当局に発見された。その内容は創刊者ペッリコのカルボナリ入党の儀についてであり、これによりマロンチェッリとペッリコはその他ジャン・ドメニコ・ロマニョーシ(イタリア語版)に代表されるコンチリアトーレ関係者数名とともに逮捕され、裁判で有罪判決を受けていたのである(ペッリコ・マロンチェッリ裁判[62]。これがロンバルド=ヴェネト王国での政治弾圧の苛烈化の引き金となり、ピエモンテ革命発生後はロンバルディア愛国者たちがそれに連携しようとしている事を当局が察知、1822年にはフェデリーコ・コンファロニエリ伯以下秘密結社フェデラーティの主要メンバーなどが逮捕された。


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