イタリア統一運動
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北部や中部にも勢力を拡大し、党員は30万人に達したとされる[33]。この秘密結社は統一運動初期における闘争の中核勢力となり[34]ピエモンテ革命ナポリ革命に参加した革命家の多くがカルボナリのメンバーであった経歴を有している。女性の場合はカルボナリには直接関与せず、ジャルディニエーレ協会(イタリア語版)という姉妹結社を設立し彼女たちも初期の革命闘争に加担した。また、少し遅れて1830年代にはアポファジーメニが結成され、カルボナリに次ぐ影響力を持って中部イタリア革命などに貢献した[35]。これら二つの組織はやがて、青年イタリアへと結びつく事になる。

また、結成された秘密結社は必ずしも自由主義や立憲主義のものばかりではなく、教皇権を絶対視するものや保守主義を掲げる右翼的なものも存在した[36]1782年頃にピエモンテに存在した「アミチーツィア=クリスティアーナ」や「ソチエタ=デル=クオーレ=ディ=ジェス」、ナポリ王国の「カルデラーリ」、1819年頃に結成された秘密結社「サンフェディスティ」などが代表的で、これらは復古政府や各君主からも半ば公認の結社だった[37]。ナポレオン体制下では反ナポレオン・反フランスという点で左右両翼の秘密結社間にも目的の一致があったものの、ウィーン体制以降は民主化や近代化への思想の違いから両者は対立。右翼的結社は復古政府と通じて左翼的結社を弾圧し、結果としてナポリ王国ではカルボナリの中でも武力行使を辞さない「デチージ」などの結社に繋がった。また、政府側が神聖同盟などを通じて国際社会との結びつきを強めていく中、秘密結社もまたドイツフランスの結社と連携して国際的な繋がりを強めた[37]

このようにしてイタリア統一運動初期は、左翼右翼に関わらず主に秘密結社が情勢のカギを握っていた。
ナポリ革命とシチリア革命「ナポリ革命」および「シチリア革命 (1820年)」も参照1822年9月12日、ナポリ革命の指導者は絞首刑に処された。
1889年。Edoardo Matania画

南イタリアのナポリ王国シチリア王国はスペイン系ブルボン朝の統治下にあった。ナポリ王国はナポレオンに征服されてフランスの衛星国になったが、シチリア王国はイギリスの庇護のもとにブルボン朝が支配権を保持した。ナポリ王国では封建制が撤廃されて、近代的な官僚制度の整備がすすめられ、不徹底で問題を多く残したが農民に土地を分配する土地改革も行われた[38]。シチリア王国ではイギリスの影響のもとで立憲主義が採用され、封建制の廃止と憲法の制定・議会の設置が行われた[39]。ウィーン体制のもとでナポリ王国にブルボン朝が復活すると、両国を統合した両シチリア王国がつくられ、これに伴いシチリア王国の憲法も破棄されてしまい、法令制度もナポリのものがシチリアに押し付けられ、シチリア人の反発が生じた[40]

1820年1月にスペインで立憲革命が発生し、蜂起した革命派軍人はスペイン王フェルナンド7世1812年憲法の復活を承諾させた。同年7月、スペインの革命に触発されたカルボナリの党員ルイージ・ミニキーニ司祭に指導された両シチリア王国軍騎兵連隊が蜂起し、これにグリエルモ・ペペ将軍の師団が加わり、各地でカルボナリが蜂起して反乱が拡大した[41]。この結果、国王フェルディナンド1世はスペイン憲法と同一の憲法の発布を余儀なくされた[42]。無血クーデターを成功させた革命派は新政府を組織して王国の半島部分を制圧する。

反乱はシチリア島に飛び火し、パレルモを中心に民衆暴動が発生した。シチリアの反乱勢力は独自の統治委員会を設置してナポリからの分離を要求したが、内部分裂から統一した行動が取れず、短期間でナポリ政府軍によって制圧された[43]

これらの事態を脅威と判断した神聖同盟の会議が開かれ、会議に招請された両シチリア王フェルディナンド1世が新政府を裏切って介入を要請したことにより、オーストリアは武力干渉を決定する[44]。ナポリの革命政府では内部対立が起きており[45]、ナポリ政府軍はオーストリア軍の侵攻に抵抗することができず壊滅してしまった[46]。フェルディナンド1世は憲法と議会を廃止し、革命家たちを迫害した[47]。南イタリアのカルボナリは衰退し、歴史家ミケーレ・アマーリを含むシチリアの革命支持者たちの多くが亡命を余儀なくされている。
ピエモンテ革命「ピエモンテ革命」も参照

サルデーニャ王国はウィーン会議によって旧ジェノバ共和国領を併合して領土を増やしており、その中心地はサルデーニャ島ではなく大陸部ピエモンテ地方のトリノにあり、ピエモンテ国家とも呼ばれる[48]。保守貴族層が支配するサルデーニャ王国では復古政府の成立以降、反動的政策が取られていた[49]。1821年3月にピエモンテのアレッサンドリアで蜂起したサントッレ・ディ・サンタローザを指導者とする自由主義将校団は憲法の制定とともに北イタリアからのオーストリアの排除を目標とした[50]。この革命にはフィリッポ・ブオナローティの秘密結社が関与している[51][52]。この蜂起で兵士たちはチザルピーナ共和国(ナポレオン体制下で短期間存在した共和国)の緑・白・赤の三色旗を用いた[53]

国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世カルロ・アルベルトを摂政に指名して退位し、カルロ・アルベルトは革命派将校に譲歩して憲法制定に同意した[51]。だが、第一王位継承者のカルロ・フェリーチェはこれを認めず、軍隊を動員するとともに神聖同盟に援助を求めた[51]。オーストリア軍がピエモンテに侵攻し、一般大衆からの支持を欠いた革命は1カ月程で鎮圧された[54]。サンタローザをはじめとするピエモンテの革命家たちは亡命し[55]、帰国して即位したカルロ・フェリーチェは反動的な統治を行うことになる[56]
反動弾圧の時代開明貴族としてフェデラーティを指揮したフェデリーコ・コンファロニエリ

両シチリア王国そしてピエモンテでの革命瓦解の後、イタリアは反動の時代を迎えた。シチリア島では革命以前よりもカルボナリの活動が活発化したが、激しい弾圧が加えられてそれは当地域の風土的産物とも言える山賊に追い込まれるように溶け込んでいった[57]1828年南イタリアではフィラデルフのアントニオ・マリア・デ・ルカ主導で「チレントの暴動 (1828年)(イタリア語版)」が起こされるが[58]、これも両シチリア王国の警察大臣フランチェスコ・サヴェーリオ・デル・カレット(イタリア語版)によってすぐさま弾圧された[59]


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