イタリア統一戦争
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18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国ジェノヴァ共和国、トレント司教領(英語版)、パルマ公国モデナ公国ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国サンマリノ共和国教皇国家そしてナポリシチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク帝国の支配下にあった。
ナポレオン体制「フランス革命戦争」および「ナポレオン戦争」も参照

1789年のフランス革命の勃発はイタリアの知識層にも影響を与え革命運動を活発化させ、革命家たちは「ジャコビーノ」(ジャコバン主義者)や「パトリオット」(愛国者)と呼ばれた[2][13]。2度にわたってイタリアに侵攻したナポレオンはオーストリア軍およびイタリア諸国軍を破って半島部を征服し、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合した。また、北東部から中部にはイタリア王国を建国させ養子のウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に任命し、南部のナポリ王国には親族(兄のジョゼフ・ボナパルト、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラ)を国王となし、フランス帝国衛星国とした。

ナポレオン覇権下のイタリアでは旧体制(アンシャン・レジーム)を撤廃すべく、行政・税制諸改革が行われ、ナポレオン法典が導入された[14][15]。この経験から、イタリア知識層の中に統一意識が芽生えるようになる[2]。その一方で、ブルジョワ層が目指す社会改革は、農民をはじめとする大衆の利益には必ずしもつながらず、強い抵抗を引き起こしている[2][16]

1813年から1814年のナポレオン体制の崩壊とともに、それまでナショナリズム感情を利用して王位を維持していたフランスの衛星国家では反政府蜂起が引き起こされた[17]。1814年にナポリ王のジョアシャン・ミュラ(ジョアッキーノ1世)はナポレオンを見限ってオーストリアと同盟し、イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネと敵対した[18]。ナポレオンが退位するとウジェーヌは領土をオーストリアに引き渡し、イタリア王国は崩壊した[19]

翌1815年に百日天下でナポレオンが復位するとミュラはナポレオンの側についてオーストリアに宣戦布告し、イタリアの自由主義者たちに外国勢力を駆逐してイタリア統一を成し遂げようと呼びかけたが、応じる者は少なく敗北して処刑されている[20][21]
ウィーン体制ウィーン会議
ジャン=バティスト・イザベイ画。1815年

ナポレオンの敗北後にオーストリアで開催されたウィーン会議1814年-1815年)では欧州大陸の再編が話し合われた。イタリアについてはナポレオン以前の諸国が再建され[nb 1]、列強国(特にオーストリア)の直接または間接的支配下に置かれた[22]

ウィーン体制下のイタリアでは、オーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、マッサ・カッラーラ公国(英語版)(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国、そして南イタリアにはブルボン家両シチリア王国が成立した[23]。1859年までこの枠組みに大きな変更はなかった。(冒頭地図参照)

これらの復古政府はナポレオン体制下での行政や法制度を概ね引き継いでいたが、サルデーニャ王国やモデナ公国では反動的な政策が取られた[24]

この当時、イタリア統一に向けての闘争は、主に北イタリアを支配していたために最も強大な障害となっていたハプスブルク家オーストリア帝国に対するものである。オーストリア帝国は、帝国の他の領域に対するのと同様に、イタリア半島において発達しつつあったナショナリズムを弾圧した[25]。ウィーン会議を主宰したオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒは「イタリアという言葉は地理上の表現以上のものではない」と言明している[26]
初期の革命闘争詳細は「1820年の革命(イタリア語版、スペイン語版、フランス語版、英語版)」を参照
秘密結社の出現「カルボナリ」および「アポファジーメニ」も参照カルボナリの旗

ウィーン体制成立後、復活したイタリアの諸邦はおおむねナポレオン体制下に導入した社会制度を維持した一方で、復古王政は革命の再来を恐れて立憲主義者や自由主義者を政治的に弾圧した。これはイタリア各地で秘密結社の結成を招き、イタリア統一運動初期においての原動力となった[27]

もっとも、こういったイタリア民族の独立や自由、立憲や解放を望む秘密結社はウィーン体制よりはるか前から出現していた。1770年代には正当なフリーメイソンのイタリア流入が推察され、1780年代にはバイエルン選帝侯領で生まれたフリーメイソンの一分派イルミナティの支部の存在がミラノナポリで確認されている[28]。またフランス革命が進行するにつれてジャコビーノ派(イタリアのジャコバン派)によってイタリア各地にジャコバン=クラブが作られ、各地域で共和政の樹立を試みられた「ジャコビーノ革命」が起こり弾圧の対象となっていた[29]1796年頃には北イタリアの完全独立を目指す「黒色連盟」の存在が知られ、それはやがて1798年に結成された秘密結社「ラッジ協会」(後に「チェントリ」に改称)に吸収されたと言われる[28]。黒色連盟やラッジ協会はイタリアの民主主義を弾圧しイタリアの民族感情を無視したやり方でイタリアを統治するナポレオンに反発して生まれたもので、それと同様のものは騒擾も厭わない過激派組織「アミーチ・デル・ポーポロ」などがある。またナポレオン体制は伊・仏両国のジャコバン派の協力を促し秘密結社運動を促進させたが、1800年代初頭にブザンソンで結成された秘密結社「フィラデルフ」はその先駆で、母体はフランス軍の反ボナパルト分子でありながらフィリッポ・ブオナローティなどイタリア人も参加した[30]


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