イタリア社会共和国
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

成立当初は北部・中部イタリアを支配地域とする、第2のイタリア・ファシズム政権であったが、実質的にはドイツ傀儡国であり、親衛隊ドイツ国防軍の強い統制を受けた[3][4]

サロ共和国(Repubblica di Salo)とも呼ばれるが、これはRSIが建国初期にガルダ湖湖畔の町サロに政府をおいていたためである[5]。法律上の首都はローマであったが、実務上の首都もサロから状況に合わせてブレシアガルニャーノヴェローナなどに遷都が繰り返され、最終的にはミラノに政府中枢が設置されていた。
歴史
クーデターと休戦RSI軍の軍旗ファスケスをつかむ銀のをあしらっている。
正式な国旗は、上記のように無紋章のトリコローレ(現在のイタリア国旗と同じ)であったが実際にはほとんど使われず、代わりに軍旗がプロパガンダを意図して一般的に用いられた。詳細は「イタリアの降伏」を参照

第二次世界大戦で、ドイツの同盟国(枢軸国)として参加したイタリア王国は、連合軍シチリア島上陸で本国占領の危機にさらされた。ここに至ってヴィットーリオ・アンブロージオ参謀総長やジュゼッペ・カステラーノ(イタリア語版)将軍らイタリア王国軍内部の休戦派とファシスト党穏健派、それに敗戦による王政廃止を恐れる王党派が反ムッソリーニで結び付いた。1943年7月25日、徹底抗戦を主張するベニート・ムッソリーニは国王と共謀した反対派勢力の政治的クーデター(グランディ決議)で首相職を解任され、グラン・サッソのホテルに幽閉された。

後継の首相となったピエトロ・バドリオ元帥はドイツに戦争の継続を約束しつつ、連合国との間で休戦交渉を進め、9月2日に休戦協定を極秘裏に締結した。しかし公表の時期をめぐってイタリア側の対応が定まらず、9月8日に連合軍のドワイト・D・アイゼンハワー大将が了承なくイタリアとの休戦成立を公表し、バドリオ政府もこれを追認した。これにより前線の軍部隊は唐突に戦いの終わりを知らされる格好になった。ドイツのアドルフ・ヒトラーは、かねてから計画していたイタリア北中部への進駐(アッシェ作戦(英語版)、アラリック作戦)を発動、ドイツ国防軍はイタリアと、南仏・バルカンのイタリア占領地域へ進駐する。国王と政権の閣僚達はローマを捨てて連合軍の占領地域に避難した。
RSI政府の樹立1943年当時の北イタリア。  イタリア社会共和国支配地域  ドイツ占領地域

イタリア地方に進駐を開始したドイツ国防軍であったが、バドリオ政権が寝返った以上、統治する上において同じファシストを奉ずる勢力を作る必要があり、その白羽の矢を旧友ムッソリーニに立てた。ヒトラーの思惑の下、ドイツ国防軍のオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊による9月12日グラン・サッソ襲撃で救出されたムッソリーニは、9月15日東プロイセンラステンブルクでヒトラーと会談し「ファシズムに基づいた共和制国家」の樹立に同意、9月18日共和ファシスト党を創立、9月23日にムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国が建国された。この国家は、ムッソリーニが元首と外務大臣を兼務し、形の上ではムッソリーニの独裁体制を復活させた。ムッソリーニは胃癌により衰弱していたが、ヒトラーはミラノやトリノ、ジェノヴァなど北イタリアの大都市を破壊するより有効に活用したいと考えていた。

ムッソリーニとファシスト党の強硬派によって築かれた新国家は王国政府の休戦を「不名誉な裏切り」と非難し「名誉ある継戦」を主張、イタリアはローマ以北のイタリア社会共和国とローマ以南のイタリア王国に分かれての内戦状態に突入した。イタリア社会共和国は枢軸軍が占領していたローマを法的な首都に定めたが、治安上の問題からミラノとヴェネツィアの中間に位置するサロを臨時首都とした。

枢軸国側は即座に新政権を承認し、日本は大使館ヴェネツィアに置いた(大使は日高信六郎)。中立国であったスペインポルトガルアルゼンチンは承認しなかったものの、非公式な関係を持っていた[6]。しかし、ドイツと深い関係にあったフィンランドヴィシー政権さえも承認を行わなかった[7][8]バチカンも承認しなかった[9]
衛星国としての出発

独立国として組織されたイタリア社会共和国であったが、実質的にはドイツの影響下に置かれた傀儡政権であった。北東部はドイツ軍による占領下に置かれ、なかでも旧オーストリア領であった南チロル地域の一部は実質的なドイツ側の支配が推し進められつつあった。工業地帯で生産された銃器や輸送車両、残っていた備蓄物資のみならず、農作物までがドイツ本国用の配給物として持ち出された。さらには軍事には関係のない美術品までも接収されるなど、半ば占領地のような扱いまで受けた。また通常ドイツの占領下に設置される親衛隊の親衛隊及び警察指導者(「イタリア」親衛隊及び警察最高級指導者、ドイツ語: Hochster SS- und Polizeifuhrer ?Italien“)が設置され、カール・ヴォルフ親衛隊大将がその任に当たった。ムッソリーニ自身も建前上は独裁者として振舞ったが、自らの実情が「ロンバルディア・ナチス」の指導者に過ぎないことを自覚していた。税収確保や憲法など国の根幹部分も未整備で、ドイツによる占領統治と同質の状況下であった。

ドイツはムッソリーニの挫折したファシスト体制の復興を治安維持の円滑化以上に見なさず、ユダヤ人弾圧政策などイタリア・ファシズムが乗り気でなかった行為を強硬に推し進めた。またヒトラーはムッソリーニに自身の罷免に賛同したファシスト党幹部への粛清を強制し、最終的にムッソリーニはエミーリオ・デ・ボーノ将軍や娘婿でもあるガレアッツォ・チャーノ外相らを始めとするクーデターに参加した閣僚や将軍らを処刑した。
経済政策

RSI政府は労働組合ストライキを禁止しつつも、労働者階級に一層の人民主義を訴えた。ムッソリーニは資本主義によってもたらされる多くの決定が国を不幸にしていると演説した。彼は北イタリアの民衆が望むなら、王党派との協力で歪んだファシスト体制を本来の形(=修正マルクス主義の発展)へと戻すと宣言した。演説の中でムッソリーニは自らが幼少期から青年期に至るまで培って来たカール・マルクスへの心酔を捨てたことは一度としてなかったし、これからもないと断言した。1940年に企業の完全国営化を推進する予定でいたが、戦争に関する理由からこれを延期していたと述べた[10]「経済の社会化」を推進したニコラ・ボンバッチ

RSI政府は君主制の撤廃に続き、100人以上の社員を持つ会社すべてを国営化する路線を進めた。経済政策は、社会党時代の友人でマルクス主義理論家のニコラ・ボムバッチが作成した経済理論に基いて行われた。これは「経済の社会化」と呼ばれている。ムッソリーニはヒトラーとの個人的友情を背景にドイツからの支援を引き出していたが、両者の遣り取りの中でムッソリーニは同じマルクス主義からの派生を信奉するソヴィエトよりも、資本主義・民主主義のイギリスの方が本質的にファシズムの敵対者であると発言した。

イタリアの労働者集団のうち、残っていた社会主義者や共産主義者の多数は、この経済の社会化を欺瞞とみなし、1944年3月1日の大規模ストライキを起こした[11]
大戦末期の抵抗

ムッソリーニは枢軸国側の敗北が決定的となる中で、「ミラノを南部戦線のスターリングラードにせねばならない」と訓示するなど、諦観の漂う演説を兵士達に行っている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef