イタリア社会共和国
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

しかし、ドイツと深い関係にあったフィンランドヴィシー政権さえも承認を行わなかった[7][8]バチカンも承認しなかった[9]
衛星国としての出発

独立国として組織されたイタリア社会共和国であったが、実質的にはドイツの影響下に置かれた傀儡政権であった。北東部はドイツ軍による占領下に置かれ、なかでも旧オーストリア領であった南チロル地域の一部は実質的なドイツ側の支配が推し進められつつあった。工業地帯で生産された銃器や輸送車両、残っていた備蓄物資のみならず、農作物までがドイツ本国用の配給物として持ち出された。さらには軍事には関係のない美術品までも接収されるなど、半ば占領地のような扱いまで受けた。また通常ドイツの占領下に設置される親衛隊の親衛隊及び警察指導者(「イタリア」親衛隊及び警察最高級指導者、ドイツ語: Hochster SS- und Polizeifuhrer ?Italien“)が設置され、カール・ヴォルフ親衛隊大将がその任に当たった。ムッソリーニ自身も建前上は独裁者として振舞ったが、自らの実情が「ロンバルディア・ナチス」の指導者に過ぎないことを自覚していた。税収確保や憲法など国の根幹部分も未整備で、ドイツによる占領統治と同質の状況下であった。

ドイツはムッソリーニの挫折したファシスト体制の復興を治安維持の円滑化以上に見なさず、ユダヤ人弾圧政策などイタリア・ファシズムが乗り気でなかった行為を強硬に推し進めた。またヒトラーはムッソリーニに自身の罷免に賛同したファシスト党幹部への粛清を強制し、最終的にムッソリーニはエミーリオ・デ・ボーノ将軍や娘婿でもあるガレアッツォ・チャーノ外相らを始めとするクーデターに参加した閣僚や将軍らを処刑した。
経済政策

RSI政府は労働組合ストライキを禁止しつつも、労働者階級に一層の人民主義を訴えた。ムッソリーニは資本主義によってもたらされる多くの決定が国を不幸にしていると演説した。彼は北イタリアの民衆が望むなら、王党派との協力で歪んだファシスト体制を本来の形(=修正マルクス主義の発展)へと戻すと宣言した。演説の中でムッソリーニは自らが幼少期から青年期に至るまで培って来たカール・マルクスへの心酔を捨てたことは一度としてなかったし、これからもないと断言した。1940年に企業の完全国営化を推進する予定でいたが、戦争に関する理由からこれを延期していたと述べた[10]「経済の社会化」を推進したニコラ・ボンバッチ

RSI政府は君主制の撤廃に続き、100人以上の社員を持つ会社すべてを国営化する路線を進めた。経済政策は、社会党時代の友人でマルクス主義理論家のニコラ・ボムバッチが作成した経済理論に基いて行われた。これは「経済の社会化」と呼ばれている。ムッソリーニはヒトラーとの個人的友情を背景にドイツからの支援を引き出していたが、両者の遣り取りの中でムッソリーニは同じマルクス主義からの派生を信奉するソヴィエトよりも、資本主義・民主主義のイギリスの方が本質的にファシズムの敵対者であると発言した。

イタリアの労働者集団のうち、残っていた社会主義者や共産主義者の多数は、この経済の社会化を欺瞞とみなし、1944年3月1日の大規模ストライキを起こした[11]
大戦末期の抵抗

ムッソリーニは枢軸国側の敗北が決定的となる中で、「ミラノを南部戦線のスターリングラードにせねばならない」と訓示するなど、諦観の漂う演説を兵士達に行っている。ドイツ国内やスイスでの亡命政権樹立も検討されたものの、国内で最後まで抵抗を組織することが議決され、実際にイタリア社会共和国軍はより良い成果を上げて連合軍を苦しめた。イタリア社会共和国軍の各部隊は元々パルチザン掃討を期待されてドイツ国防軍から創設を段階的に許可されたが、その戦果は当初予想されていたものをはるかにしのぐものだった。

既に旧イタリア軍兵士やカラビニエリの残党兵が義勇軍を各地で組織しており、国防大臣であったロドルフォ・グラツィアーニ元帥は義勇軍の一本化と平行してドイツ国防軍の支援の下、新たな正規軍(ENR)の編成を進めた。1943年10月16日にドイツ陸軍とラステンブルク軍事協定が締結され、ドイツ国防軍式の訓練と装備を導入することが決まった。この協定によりRSI正規軍4個師団の編成が決まり、RSI軍は自主的な義勇軍部隊と他国軍の支援による正規軍部隊という二つの要素を持つことになった。また陸海空軍とは別に、治安を専門とする国家憲兵ともいうべき部隊も各所で組織され、戦列に加わった。

正規軍の内、3個師団はRSI軍の中核を成すリグリア軍集団(ピエモンテ州駐屯)に編入され、第4師団「イタリア」のみがアブルッツォ州に駐留する独第14軍に加えられた。1944年12月26日に第1師団『モンテ・ローザ』と第3師団『サン・マルコ』は冬の嵐作戦で米第92歩兵師団「バッファロー」への攻撃を割り当てられた。両師団の攻撃は成功に終わり、米第92歩兵師団は損害を受けて敗北した。1945年2月に再び米第92歩兵師団はRSI軍と今度は攻め手として相対したが、第4師団「イタリア」に敗北して前進に失敗した。

ドイツ国防軍内に創設されたイタリア人義勇兵団「第一イタリア」も極めて良好な結果を出し、アンツィオの連合軍包囲網を破ってドイツ軍が脱出する時間を稼ぐ大功を果たした。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは「同兵団は今や完全に武装親衛隊の一部となった」と賞賛して、同部隊を武装SS所属の擲弾兵旅団に格上げした。
崩壊「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」も参照

1945年4月、ヴォルフ親衛隊大将とイタリア戦線の主戦力であるC軍集団ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ大将は連合軍への降伏を決定した。ドイツ国防軍の降伏はRSI政府にも通告されず、知りえたのはRSI軍の一部部隊のみであった。4月25日(パルチザンはこの日を「自由の記念日」と呼んだ)、RSI政府は事実上の政権崩壊に追い込まれた。元首ムッソリーニも4月27日に拘束され、法的裏付けを持たない略式裁判を経てパルチザンに射殺された。RSI軍は4月29日まで抵抗を続けた後、グラツィアーニ元帥の署名で降伏に同意した。
軍隊
陸軍閲兵を受ける陸軍部隊軍旗はイタリア国旗に鷹とファッショが描かれた物が使用されたサブマシンガン用マガジンベスト「サムライ」を装備するイタリア社会共和国兵(1944年東プロイセンサン・マルコ海兵師団兵治安部隊兵士と話すムッソリーニ
正規軍部隊
第1師団『モンテ・ローザ』 - アルピーニ(山岳兵)部隊

1943年11月、南ドイツ・ムンツィンゲン練兵場で旧イタリア軍の山岳兵1000名を中心として組織される。

新兵が合流していくにつれて部隊規模を拡大し、最終的には1万7000名もの大部隊へと発展した同師団は他のENR部隊同様、ドイツ国防軍式の訓練を受け、対戦車戦闘なども想定した厳しい再訓練を施された。

装備もモーゼルKar98k小銃やパンツァーシュレックなどドイツ国防軍の兵器で固めた「モンテ・ローザ」師団は本国に帰還し、リグリア地方軍(グラツィアーニ元帥指揮)へ配属され、1944年10月のゴシックライン防衛戦で初陣を飾る。モンテ・ローザ師団は得意の山岳戦を担当し、連合軍ブラジル軍師団に手痛い打撃を与えるなど戦果を挙げる。1944年の暮れに開始された「冬の嵐」作戦では独第148擲弾兵師団と「フレッター・ピコ戦闘団」を形成、他のRSI軍部隊と共に獅子奮迅の活躍を見せ、友軍たるドイツ国防軍のうち独第285擲弾兵連隊で士気低下による脱走兵が大量に発生(同師団はアルザス出身の兵士で占められていたという)するなど不利な状況下ながら、優勢な連合軍を大いに苦しめ翌年の4月までその足止めに成功した。

ドイツ国防軍司令部からも同作戦での勇戦を賞賛され、多くの兵士が二級鉄十字章を与えられた『モンテ・ローザ』師団であったが、1945年4月以降の状況下はもはや一個部隊では何ともし難く、最高指導者ムッソリーニが処刑されRSI政府が崩壊する前後にパルマで連合軍に降伏した。

ちなみにその際の武装解除を担当したのは、他でもない前述のブラジル軍部隊であったというエピソードが残っている。

また一部部隊はパルチザン戦に投入され、ピエモンテ州アルプス国境のレジスタンス部隊の鎮圧に活躍した。
第2師団『リットリオ』 - 歩兵師団


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef