イタリア王国(イタリアおうこく、イタリア語: Regno d'Italia)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国である。イタリア統一運動の流れの中で1861年に成立し[2]、1946年に共和制へ移行した。 イタリア半島は長きに渡ってフランスやオーストリア帝国など大国の強い影響力のもと、小国の割拠する状態にあったが、1848年革命後にはイタリアの統一を期待する風潮が高まった(イタリア統一運動)。サヴォイア家の統治するサルデーニャ王国はイタリア北西部とサルデーニャ島を領有していた国家であったが、フランス帝国と結んでオーストリア帝国を破り、ヴェネト地方を除く北イタリアを統一した。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、ローマ以外の教皇領を併合して中部イタリアに領域を広げた。両シチリア王国を滅ぼした英雄ジュゼッペ・ガリバルディが南イタリアを献上したことでイタリアの大部分はサルデーニャの支配下となった。1861年3月14日、ヴェストファーレン条約によって廃止されていたイタリア王としてヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位し、イタリア王国が成立した。「イタリア王国憲法」とされたのはサルデーニャ王国時代に制定されていたアルベルト憲章
概要
民族統一主義(イリデンティズム)による大イタリア主義によって、統一後もオーストリア帝国支配下による未回収のイタリアと呼ばれる地域の併合が望まれ続けた。1866年のプラハ条約でヴェネトを併合した。また「遅れた先進国」として植民地の領有も盛んに推進され、1889年にはウッチャリ条約によりエチオピア北部のエリトリアを、1908年にはイタリア領ソマリランドを、1912年には伊土戦争の戦勝でリビアを獲得した。外交的には三国同盟に加わったが、三国協商とも関係を築いていた。三国協商側のイギリス、フランスと協力することで、アフリカ植民地を保持することなどを目的としていた。1915年のロンドン密約により未回収のイタリアの返還が約束されると連合国として第一次世界大戦に参戦した。しかし戦後のイタリア王国は五大国の一つとされたものの、獲得した領土は南ティロルやドデカネス諸島など僅かなものにとどまり、イタリア人が最も熱望していたフィウーメの獲得はできなかった。この「骨抜きにされた勝利(イタリア語版) (Vittoria Mutilata)」への不満はガブリエーレ・ダンヌンツィオによるカルナーロ=イタリア執政府の樹立運動や、ファシズムの台頭につながった。
1922年10月のローマ進軍によってベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党が権力を掌握し、王権のもとにあるファシスト体制が構築された。1936年にはエチオピア帝国への侵攻を開始し(第二次エチオピア戦争)、イギリス・フランスと対立を深めた。