イタリア植民地帝国
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

スペインは1931年第二共和政へ移行したが、王政に代わる左派共和政権の伸長に伴い、スペインでは共和政府打倒を目指す王政派とファシストによるイタリアへの働きかけが繰り返され、親伊政権樹立のためにイタリア側は彼らの支援に同意した[31]。一方1936年7月、スペイン内戦時におけるナショナリスト派(英語版)のフランシスコ・フランコは、与党共和党派に対するイタリアの支援を求め、イタリアが支援した場合には「将来の西伊関係は友好的以上のもの」になり、「将来のスペイン政治において、イタリア政府の影響力がドイツ政府のそれに打ち勝つのを可能にするだろう」と保証した[32]。イタリアは、スペイン東部沖に浮かぶバレアレス諸島を占拠しスペインに従属国を成立させる意図で内戦に介入した[33]。イタリアが同諸島の支配を求めたのは、フランスとその北アフリカ植民地との間、および英領ジブラルタルとマルタとの間の連絡網分断を可能にした、その戦略的位置にあった[34]。フランコとナショナリスト派が勝利した後には、イタリアがスペインへ圧力をかけてバレアレス諸島占領を認めさせようとしていることが連合軍の情報機関に伝えられた[35]

イギリスが1938年に英伊中立条約(英語版)に署名した後、ムッソリーニと外相のガレアッツォ・チャーノは、特にジブチ、チュニジアおよびフランスが運営するスエズ運河について、フランス側による地中海での譲歩に関する要求を発表した[36]。その3週間後には、ムッソリーニはチャーノに対しアルバニア王国買収を要求する用意があると語った[36]。彼は、イタリアが大西洋からインド洋までアフリカの連続した植民地を獲得し、1000万人のイタリア人がそこに定住していなければ「楽に呼吸する」ことはできないとも公言した[26]。イタリアは同年にスエズ運河での勢力圏を要求し、特にフランスが所有するスエズ運河会社に対してその取締役会へイタリア代表の受け入れを求めた[37]。フランスのスエズ運河独占に反対していたのは、フランスが有する運河会社の下では、イタリア領東アフリカへ往来するイタリア業者が運河へ入る際に必ず通航料を支払わなければならなかったためである[37]

1939年4月、イタリアはアルバニアへ侵攻および占領してその植民地帝国の一部とし、サヴォイア家の下の同君連合とした。今日のアルバニアは初期ローマ帝国の一部であり、北イタリアがローマに占領される前から存在していたが、イタリアはアルバニア指導者との強い結び付きを維持し、自らの勢力圏内にあるという強い認識を持っていたにもかかわらず、そこには長い間アルバニア人が居住していた[38]。ムッソリーニは単に、ドイツによる第一共和政オーストリアへのアンシュルスチェコスロバキア解体に相当するような、より小さな隣国に対する華々しい成功を望んでいたとされる[38]。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はアルバニア王位を継承し、イタリア保護領アルバニア (1939-1943)(英語版)にてシェフケト・ベイ・ヴェルラツィ(英語版)政権下のファシスト政府が樹立された。

5月22日になるとナチス・ドイツとの間で鋼鉄協約が結ばれて両国間に正式な軍事同盟が発足し、遅れて翌年の9月に大日本帝国が加わることで日独伊三国同盟が成立した。
第二次世界大戦詳細は「イタリア領モンテネグロ行政区域(英語版)」、「リュブリャナ属州(英語版)」、および「クロアチア独立国」を参照「第二次世界大戦中のイタリア軍事史(英語版)」も参照アオスタ公アメデーオはアンバ・アラギの戦い(英語版)にてイタリア軍を指揮した[39]

ムッソリーニはイタリアの領土拡大計画上、アドルフ・ヒトラーと共に枢軸国として第二次世界大戦に参戦した。彼はその計画にて西ユーゴスラビア、南フランス、コルシカ島、マルタ、チュニジア、アルジェリアの一部、モロッコの大西洋の港、仏領ソマリランド、英領エジプトとスーダンなどを構想していた[40]

1940年6月10日、前年の9月からドイツと交戦していた英仏に対し、ムッソリーニ率いるイタリアは宣戦布告した。1940年7月にはチャーノ外相が、コルシカ島ニースマルタの併合、チュニジアの保護領とアルジェリアの緩衝地帯、イタリアの軍事プレゼンスによる独立とレバノン・パレスチナ・シリア・トランスヨルダンの基地ならびにそれらの地域における石油会社の収用、アデンペリム島ソコトラ島の軍事占領、イタリアに与えられたコルフ島・チャメリアと引き換えにギリシャに与えられたキプロス島を含む、イタリアの要求に関する文書をヒトラーに提示した。また、英領ソマリランド、ジブチ、チャドまでのフランス領赤道アフリカなどの領土も含まれていたほか、チャーノは会談にてイタリアがケニアとウガンダも望んでいると付け加えた[41]。ヒトラーは特にコメントすることもなくその文書を承認した[41]

バルカン半島においては、イタリアはダルマチアでの権利を主張し、アルバニア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴァルダル・マケドニアそしてギリシャに対し、これらの地域における古代ローマ支配の先例に基づいて野心を抱いた[42]。ダルマチアとスロベニアはイタリアへ直接併合された一方、その他のバルカン諸国は従属国となった[43]

1940年10月、ムッソリーニはアルバニアからの進軍を命じギリシャ・イタリア戦争が勃発したが、この作戦は当初成功せずに膠着していた[44]1941年4月になると、ドイツ国防軍ユーゴスラビア侵攻の開始とほぼ同時にギリシャの戦いに参戦し、イタリアと他のドイツの同盟国は両作戦を支援した。ドイツ軍とイタリア軍は約2週間でユーゴスラビアを侵略し、イギリス側の支援があったにもかかわらず、ギリシャも4月末までに制圧された。イタリアは両国の一部を支配するようになり、新たに成立したクロアチア独立国の王にはサヴォイア家のトミスラヴ2世が選任された。

バトル・オブ・ブリテンが熾烈を極めた1940年9月になると、スエズ運河の確保を目論んだイタリアはリビアからエジプト侵攻を開始した。イタリア軍は9月16日までに国境を越えて60マイル進撃したが、イギリス軍が12月にコンパス作戦を発動し、翌年2月までにイタリア第10旅団(英語版)を分離させて捕らえ、リビア奥深くへ侵入した[45]。リビア陥落はドイツのゾネンブルーメ作戦により阻止され、枢軸軍の攻勢によりイギリス側はエジプトへ後退しエル・アラメインの戦いが起きる1942年7月まで留まっていた。同年11月、ヴィシー・フランス支配下にあったモロッコとアルジェリアに対する連合軍のトーチ作戦は二正面戦線を生み出した。これを受けてイタリア・ドイツ両軍はチュニジアへ向かったが、エジプト方面の部隊は間もなくリビアへの大幅な後退を強いられ、1943年5月にチュニジアの枢軸軍はついに降伏を余儀なくされた。

一方、東アフリカ戦線は英領ケニア・ソマリランド・スーダンにイタリアが侵攻したことで始まった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:102 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef