イタリア植民地帝国
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土壇場でチュニジアをイタリアとフランスで共有するという提案をするも拒否され、ドイツからの支持に自信のあったフランスはフランス領アルジェリアから派兵し、1881年5月のバルドー条約(英語版)によりフランス保護領チュニジアを樹立した[8]。イタリアの報道機関が言及した「チュニジアの爆弾」の衝撃と、ヨーロッパ内における孤立感から、イタリアは1882年ドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国との三国同盟に署名するに至った[9]

イタリアによる植民地の追求は1886年2月まで続き、イギリスとの秘密協定によって、崩壊しつつあったエジプト副王領(英語版)(Khedivate of Egypt)から紅海に面したエリトリアのマッサワ港を奪取し併合した。マッサワ併合がエチオピア帝国の海への出口を塞ぎ[10]フランス領ソマリランドの拡大を阻止した[11] と同時に、イタリアはアフリカの角の南部地域を占領してイタリア領ソマリランドを形成した[12]。しかし、イタリアはエチオピアそのものを切望しており、当時のイタリア首相アゴスティーノ・デプレティス(英語版)は1887年に侵攻を命じてエリトリア戦争を引き起こすも、ドガリの戦い(英語版)にて500人の戦死者を出した後に中断された[13]。デプレティスの後継者となったフランチェスコ・クリスピ(英語版)は、即位したばかりの皇帝メネリク2世との間で1889年ウッチャリ条約に調印した。この条約は、イタリア領エリトリア植民地を形成するためにマッサワ周辺のエチオピア領をイタリアに割譲することを定めており、少なくとも条約文のイタリア語版によると、エチオピアはイタリアの保護国とされた[14]。その後両国関係は悪化し、クリスピが侵攻を命じた1895年第一次エチオピア戦争が勃発したが、イタリア側は多勢に無勢であり装備も貧弱だった[15] 結果、1896年アドワの戦いにてエチオピア軍に対する決定的敗北を喫した[16]。この時のエチオピア側はロシア帝国の顧問団と装備、およびロシア人義勇兵部隊によって支援されていた[17]。戦死者はイタリア人4,133人を含む6,889人だった一方、エチオピア軍は少なくとも4,000人の死者と10,000人の負傷者を数えた[17]。イタリア人、エリトリア人、ソマリア人の死者数は、疾患によるものも含めておよそ9,000人と推定された[17]

1898年初頭、清王朝において列強が威海衛租借地(英)、広州湾租借地(仏)、膠州湾租借地(独)などを獲得したことを受け、イタリア政府は国威発揚と列強としての地位を主張するうえで石炭補給基地とするために三門湾の割譲を求めた。しかし清政府は、イタリアの海軍力アジア海域での需要を充分に支えられていないことを認識しており、最後通牒をはじめとする一連の要請を拒否し、イタリアには中国での政治的・経済的実益がないと主張した。イタリアの主要各紙が自国を「三流あるいは四流国のように」思わせたこの国民的屈辱は、イタリア政府を失墜させた。その後義和団の乱の際、北京での外征にイタリアが八カ国連合軍として参加し、アジアで唯一の前哨地となった天津において1901年に租界を獲得したことによって、この失態はある程度緩和された[18]。租界は天津のイタリア領事により管理された。

20世紀初頭にイタリアを席巻したナショナリズムの高揚は、帝国の拡大に圧力をかけたイタリア・ナショナリスト協会の設立につながった。新聞紙のトピックは、前世紀末にエチオピアで受けた屈辱への復讐やローマ帝国時代へのノスタルジアで埋め尽くされており、リビアについては旧ローマの属州として、南イタリアの人口増加問題の解決策をもたらすために「取り戻される」べきだと提案された。英仏により北アフリカから完全に排除されることを恐れ、世論に配慮したジョヴァンニ・ジョリッティ首相は、1911年10月に当時のリビアを内包していたオスマン帝国へ宣戦布告し、伊土戦争が勃発した[19]。これに勝利したイタリアはリビア[注 1] とドデカネス諸島を獲得する結果となった。1911?12年のこの砂漠戦争の際立った特徴は、軍事史における装甲戦闘車両と大規模な空軍力が最初に運用されたことであった[20]。また、この戦争中には9機のイタリア機が戦闘任務と支援任務の両方に参加し、史上初のパイロットの戦死は偵察中に搭乗機が墜落したことで起きた[20]
第一次世界大戦とその後詳細は「第一次世界大戦中のイタリア軍事史(英語版)」および「オスマン帝国の分割(英語版)」を参照

1915年、イタリアは第一次世界大戦において協商国としての参戦に同意した。その見返りとして、ロンドン秘密協定にてヨーロッパでの領土が保証され、英仏がドイツのアフリカ領を獲得した場合にはアフリカでの領土が保証された[21]

大戦に直接介入する前の1914年12月、イタリアはアルバニア公国ヴロラ港を、 1916年の秋には南アルバニアを占領した[4]。1916年のイタリア軍はアルバニアの非正規兵を徴用してイタリア兵と合同で任務を与えており、同年8月23日には連合軍司令部の許可を得て北エピルス(英語版)を占拠し、中立の立場だったギリシャの占領軍をそこから撤退させた[4]。1917年6月、イタリアは中央および南アルバニアを保護国とする宣言を出す一方、北部はセルビア王国モンテネグロ王国の州として割り当てられた[4]1918年10月31日までには、イタリアとフランスはアルバニアからのオーストリア・ハンガリー軍の駆逐に成功した[4]。しかし1920年、イタリアの支配に反発したヴロラ戦争によって、イタリアはサザン島(英語版)を除く占領地をアルバニアに返還することに同意した。

ダルマチアは大戦中、イタリア・セルビア両国がオーストリア=ハンガリー帝国から獲得しようとした戦略的地域であり、ロンドン秘密協定は、イタリアが連合国側に参加するのと引き換えに、ダルマチアの大部分を併合する権利をイタリアに保証したものであった。 1918年の11月5日から6日には、イタリア軍がヴィス島シベニク、ラストヴォ(英語版)などその他のダルマチア沿岸に到達したと報告された[22]。11月中の終戦までに、イタリア軍はロンドン秘密協定によって保証されていたダルマチアの地域を支配下に入れ、11月17日にはリエカも占領した[23]。この年にはエンリコ・ミロ(英語版)提督がイタリアのダルマチア州知事を自ら宣言した[23]

しかし、1919年に締結されたヴェルサイユ条約において、イタリアはロンドン秘密協定にて約束された領土以外は何も獲得できなかった。


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