その後の20年間でアフリカでのヨーロッパ諸国による買収ペースが増加し、いわゆる「アフリカ分割」を引き起こした。1914年からの第一次世界大戦までには、イタリアはアフリカの紅海沿岸にあるエリトリア(イタリア領エリトリア)、 保護領を経て植民地となったソマリア(イタリア領ソマリランド)、そして後にリビアとして統一される元オスマン帝国領のトリポリタニア(イタリア領トリポリタニア)とキレナイカ(イタリア領キレナイカ、伊土戦争後に獲得)へと版図を広げた。
アフリカ以外では、トルコ沖のドデカネス諸島(イタリア領エーゲ海諸島、伊土戦争後に獲得)と清王朝の天津租界(イタリアの天津租界(英語版)、義和団事件後に獲得)を領有していた。第一次世界大戦中のイタリアはアルバニア南部を占領してオーストリア=ハンガリー帝国の手に渡ることを防ぎ、1917年からヴロラ戦争(英語版)が1920年に起きるまでの間にはそこへイタリア保護領アルバニア (1917-1920)(英語版)を成立させた[4]。1922年にベニート・ムッソリーニとともに政権を握ったファシスト党は、帝国の規模を拡大して領土回復主義者の要求(未回収のイタリア)を満たそうとした。
1935年からの第二次エチオピア戦争においてもイタリアは勝利し、新たに征服したイタリア領エチオピア(英語版)は旧東アフリカ植民地と併合されてイタリア領東アフリカとなった。1939年にはアルバニアへ侵攻して帝国内に組み込み、その5ヵ月後に勃発した第二次世界大戦中にはイギリス領ソマリランド、フランス南部、エジプト王国西部、そしてギリシャ王国の大部分を獲得した。しかし1943年までには、これらの征服地とエチオピアを含むアフリカの植民地は侵攻してきた連合軍に奪回され、1947年の対伊講和条約にて、イタリアはすべての植民地における主権を放棄させられた。1950年になると、国際連合の監視下でイタリア信託統治領ソマリアの管理が許諾され、その後1960年に統治領がソマリア連邦共和国として独立したことで、イタリアの約80年間にわたる植民地帝国としての歴史に幕を閉じた。
歴史
帝国形成への始動詳細は「イタリア領エリトリア」、「イタリア領ソマリランド」、「イタリア領トリポリタニア」、「イタリア領キレナイカ」、および「イタリア領エーゲ海諸島」を参照「エリトリア戦争」、「第一次エチオピア戦争」、および「伊土戦争」も参照
19世紀から20世紀にかけてのイタリアは他のヨーロッパ列強と植民地拡大を競い、我らが海(Mare Nostrum)の概念を再興させてファシズム帝国が繁栄するために最適な空間を生み出した[5]。しかし、イタリアが植民地競争に遅れをとっていたことや、国際情勢における相対的な弱さのため、その帝国建設はイタリアに対するイギリス、フランス、ドイツなど他国の黙認に依存していた[6]。
イタリアは長い間、イタリア系チュニジア人(英語版)の大きなコミュニティがあったオスマン帝国の属領チュニジアを自国の経済的影響圏であると考えていたが、イギリスとドイツがチュニジアを北アフリカの植民地に加えるようフランスに働きかけたことが明らかとなった1879年まで、それを併合することは検討していなかった[7]。土壇場でチュニジアをイタリアとフランスで共有するという提案をするも拒否され、ドイツからの支持に自信のあったフランスはフランス領アルジェリアから派兵し、1881年5月のバルドー条約(英語版)によりフランス保護領チュニジアを樹立した[8]。イタリアの報道機関が言及した「チュニジアの爆弾」の衝撃と、ヨーロッパ内における孤立感から、イタリアは1882年にドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国との三国同盟に署名するに至った[9]。
イタリアによる植民地の追求は1886年2月まで続き、イギリスとの秘密協定によって、崩壊しつつあったエジプト副王領(英語版)(Khedivate of Egypt)から紅海に面したエリトリアのマッサワ港を奪取し併合した。マッサワ併合がエチオピア帝国の海への出口を塞ぎ[10]、フランス領ソマリランドの拡大を阻止した[11] と同時に、イタリアはアフリカの角の南部地域を占領してイタリア領ソマリランドを形成した[12]。しかし、イタリアはエチオピアそのものを切望しており、当時のイタリア首相アゴスティーノ・デプレティス(英語版)は1887年に侵攻を命じてエリトリア戦争を引き起こすも、ドガリの戦い(英語版)にて500人の戦死者を出した後に中断された[13]。デプレティスの後継者となったフランチェスコ・クリスピ(英語版)は、即位したばかりの皇帝メネリク2世との間で1889年のウッチャリ条約に調印した。この条約は、イタリア領エリトリア植民地を形成するためにマッサワ周辺のエチオピア領をイタリアに割譲することを定めており、少なくとも条約文のイタリア語版によると、エチオピアはイタリアの保護国とされた[14]。その後両国関係は悪化し、クリスピが侵攻を命じた1895年に第一次エチオピア戦争が勃発したが、イタリア側は多勢に無勢であり装備も貧弱だった[15] 結果、1896年のアドワの戦いにてエチオピア軍に対する決定的敗北を喫した[16]。この時のエチオピア側はロシア帝国の顧問団と装備、およびロシア人義勇兵部隊によって支援されていた[17]。戦死者はイタリア人4,133人を含む6,889人だった一方、エチオピア軍は少なくとも4,000人の死者と10,000人の負傷者を数えた[17]。