イタリア植民地帝国
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英仏により北アフリカから完全に排除されることを恐れ、世論に配慮したジョヴァンニ・ジョリッティ首相は、1911年10月に当時のリビアを内包していたオスマン帝国へ宣戦布告し、伊土戦争が勃発した[19]。これに勝利したイタリアはリビア[注 1] とドデカネス諸島を獲得する結果となった。1911?12年のこの砂漠戦争の際立った特徴は、軍事史における装甲戦闘車両と大規模な空軍力が最初に運用されたことであった[20]。また、この戦争中には9機のイタリア機が戦闘任務と支援任務の両方に参加し、史上初のパイロットの戦死は偵察中に搭乗機が墜落したことで起きた[20]
第一次世界大戦とその後詳細は「第一次世界大戦中のイタリア軍事史(英語版)」および「オスマン帝国の分割(英語版)」を参照

1915年、イタリアは第一次世界大戦において協商国としての参戦に同意した。その見返りとして、ロンドン秘密協定にてヨーロッパでの領土が保証され、英仏がドイツのアフリカ領を獲得した場合にはアフリカでの領土が保証された[21]

大戦に直接介入する前の1914年12月、イタリアはアルバニア公国ヴロラ港を、 1916年の秋には南アルバニアを占領した[4]。1916年のイタリア軍はアルバニアの非正規兵を徴用してイタリア兵と合同で任務を与えており、同年8月23日には連合軍司令部の許可を得て北エピルス(英語版)を占拠し、中立の立場だったギリシャの占領軍をそこから撤退させた[4]。1917年6月、イタリアは中央および南アルバニアを保護国とする宣言を出す一方、北部はセルビア王国モンテネグロ王国の州として割り当てられた[4]1918年10月31日までには、イタリアとフランスはアルバニアからのオーストリア・ハンガリー軍の駆逐に成功した[4]。しかし1920年、イタリアの支配に反発したヴロラ戦争によって、イタリアはサザン島(英語版)を除く占領地をアルバニアに返還することに同意した。

ダルマチアは大戦中、イタリア・セルビア両国がオーストリア=ハンガリー帝国から獲得しようとした戦略的地域であり、ロンドン秘密協定は、イタリアが連合国側に参加するのと引き換えに、ダルマチアの大部分を併合する権利をイタリアに保証したものであった。 1918年の11月5日から6日には、イタリア軍がヴィス島シベニク、ラストヴォ(英語版)などその他のダルマチア沿岸に到達したと報告された[22]。11月中の終戦までに、イタリア軍はロンドン秘密協定によって保証されていたダルマチアの地域を支配下に入れ、11月17日にはリエカも占領した[23]。この年にはエンリコ・ミロ(英語版)提督がイタリアのダルマチア州知事を自ら宣言した[23]

しかし、1919年に締結されたヴェルサイユ条約において、イタリアはロンドン秘密協定にて約束された領土以外は何も獲得できなかった。1920年4月、イタリアとイギリスの外相間でジュバランドをイタリアの補償地とすることが合意されたが、イギリスは数年間この取り決めを留保し、イタリアにドデカネス諸島をギリシャへ割譲させるための影響力として利用しようとした[24]
ファシズムとイタリア帝国詳細は「イタリア領リビア」、「イタリア領エチオピア(英語版)」、「イタリア領東アフリカ」、および「イタリア保護領アルバニア (1939-1943)(英語版)」を参照「リビア平定(英語版)」、「第二次エチオピア戦争」、および「イタリアのアルバニア侵攻」も参照イタリア植民地帝国の最大版図。赤色は本国と植民地および保護国、桃色は戦時中に奪取した地域。

1922年イタリアのファシズム運動の指導者であったベニート・ムッソリーニローマ進軍の後に首相に就任し、1923年ローザンヌ条約にてドデカネスの主権問題を解決した。この条約は、オスマン帝国の後継国家であるトルコへの支払いの見返りに、元オスマン帝国領であったリビアとドデカネス諸島に対するイタリア統治を正式なものとしたが、イギリス委任統治領メソポタミア(現在のイラク)をイギリスから引き出すことには失敗した。

ローザンヌ条約を批准した翌月、ムッソリーニはコルフ島事件を受けてギリシャ王国のコルフ島侵攻を命じたが、イタリアメディアはかつてコルフ島が400年間ヴェネツィア共和国の領土であったこと(ヴェネツィア共和国領イオニア諸島(英語版))を指摘して、この動きを支持した。この問題はギリシャによって国際連盟に持ち込まれ、そこでムッソリーニはギリシャからの賠償金と引き換えにイタリア軍を撤退させるようイギリスの説得を受けた。この対立の結果、イタリアとイギリスは1924年にジュバランド問題を解決するに至り、後にイタリア領ソマリランドへ合併された[25]

1920年代後半には、ムッソリーニの演説において帝国の拡大がますます好まれるテーマとなった[26]。ムッソリーニの目的は、イタリアが地中海の支配的勢力となり、英仏両大国に挑戦して大西洋インド洋に進出することであった[26]。彼は、イタリアが国家主権を確保するためには、世界の海洋航路への争いのない自由なアクセスが必要だと主張した[27]。これに関しては、1939年に作成された文書『海洋への行軍(The March to the Oceans)』に詳述されており、ファシズム大評議会の議事録にも記されている[27]。この文書では、海洋の位置が国家の独立を決定づけ、公海へ自由にアクセスできる国々は独立している一方、アクセス性を欠く国家は独立国ではないと断言されている。英仏の黙認なしに内海(地中海)にしかアクセスできなかったイタリアは「半独立国家」にすぎず、「地中海の囚人」であると表現されていた[27]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}"コルシカ島、チュニジア、マルタ、そしてキプロス島はこの監獄の鉄格子であり、番兵はジブラルタルスエズだ。コルシカ島はイタリアの心臓部に、チュニジアはシチリア島に向けられた銃である。マルタとキプロス島は地中海の東部と西部における、我々のすべての立場に対する脅威を構成する。ギリシャ、トルコ、エジプトは大英帝国との鎖を結び、イタリアの政治的・軍事的包囲網をいつでも完成できる。ゆえに、その3ヵ国はイタリアの拡大にとって死活的な敵と見なされねばならない... アルバニアを除くヨーロッパの領土性質の大陸目標を持てず、そして持たぬイタリアの政策方針は、何よりもまずこの監獄の柵を破ることにある... ひとたびそれを壊せば、イタリアの政策はただひとつのモットーを持ちうる ──海への行軍だ。"—ベニート・ムッソリーニ、The March to the Oceans[27]

1932年1935年には、イタリアは元ドイツ保護領カメルーン委任統治と、イタリアのドイツに対する支援の見返りにフランスからエチオピアへの自由な介入を要求した(ストレーザ戦線[28]


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