イタリア戦争
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第一次イタリア戦争(1494年 - 1498年)詳細は「第一次イタリア戦争」を参照

1494年、フランス王シャルル8世が「ヴァロワ=アンジュー家からナポリを継承した」と主張し、イタリアに遠征。この過程でメディチ家フィレンツェから追放された。翌年ナポリを占領するが、教皇アレクサンデル6世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結び対抗したため、撤退する。
第二次イタリア戦争(1499年 - )詳細は「第二次イタリア戦争」、「グラナダ条約」、「トレント条約」、「ブロワ条約 (1504年)」、および「ノヴァーラの戦い (1500年)」を参照

1499年、フランス王ルイ12世が「父オルレアン公からミラノを継承した」と主張し、ミラノ出身のジャン・ジャコモ・トリヴルツィオを最高司令官とするフランス軍が侵攻(オルレアン公はヴィスコンティ家の血を引いていた)。1500年にノヴァーラの裏切り(ドイツ語版、英語版)で、スフォルツァ家イル・モーロを幽閉、ミラノ公国を征服(1513年まで)。1503年、スペインのコルドバ将軍がナポリを征服。以後、スペインのナポリ総督が支配する。1504年、ブロア条約により休戦。フランスがナポリを放棄。
カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)詳細は「カンブレー同盟戦争」を参照

1511年、教皇ユリウス2世がアラゴン、ヴェネツィア、イングランド、スイスと神聖同盟を結び、フランスに対抗。1513年2月にボスコリ事件ニッコロ・マキャヴェッリが失脚、3月にメディチ家から新教皇レオ10世(在位:1513年 - 1521年)が誕生、6月6日にミラノからフランス軍が追放される(ノヴァーラの戦い)。スフォルツァ家が一時復帰。1515年、フランス王フランソワ1世がミラノに侵攻(マリニャーノの戦い(イタリア語版、フランス語版、ドイツ語版、英語版))。スフォルツァ家を追放し、ミラノを支配する。
ウルビーノ戦争(1517年)詳細は「ウルビーノ戦争」を参照

カンブレー同盟戦争でフランスとヴェネツィアが教皇に勝利したのに乗じて、前年に破門されウルビーノ公位から追放されたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは教皇から公国を奪還する画策をはじめた。

1517年のはじめ、フランチェスコ・マリーア1世はウルビーノコンドッティエーレのフランチェスコ・デル・モンテ率いる教皇軍を撃退、市民の熱烈な歓迎の下で入城した。

教皇レオ10世はあわてて1万の軍勢を雇い、ロレンツォ2世・デ・メディチ、レンツォ・ダ・チェーリ(英語版)、ジュリオ・ヴィテッリ(英語版)、グイド・ランゴーニ(イタリア語版)などのコンドッティエーレをウルビーノに送った。ロレンツォ2世は4月4日のモンドルフォ包囲戦で銃傷を負いトスカーナへ戻ってしまい、代役のビッビエーナ枢機卿(英語版)は無能で統率がうまくいかずポッジボンシで大敗、ペーザロまで撤退した。

形勢有利なフランチェスコ・マリーア1世だったが、彼は資金繰りに失敗してヴェローナで雇った傭兵に払うお金がなくなった。トスカーナやウンブリアでの戦況も膠着したため和平を模索するようになる。9月、フランチェスコ・マリーア1世と教皇は平和条約に署名した。

1517年にレオ10世がサン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツでの贖宥状販売を認めると、ルター95ヶ条の論題でこれに抗議した。
神聖ローマ皇帝選挙(1519年)

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争い、1519年にカルロス1世がカール5世として神聖ローマ皇帝に即位してスペイン王を兼ねた。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執があったが、フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり、重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。

異教徒であるオスマン帝国の存在や、折から始まった宗教改革もこの混乱に輪をかけた。イタリア各国も利害が相反してしばしば対立して、一致して対抗することなくハプスブルク家あるいはヴァロワ家と結んだため、付け入る隙を与えることになった。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもあるが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになる。
第三次イタリア戦争(1521年 - 1526年)詳細は「第三次イタリア戦争」および「マドリード条約 (1526年)」を参照

1521年以降、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った。1521年、教皇レオ10世メディチ家出身)は神聖ローマ皇帝カール5世と結び、フランス支配下のミラノを攻め、奪還。

1522年ロドス包囲戦ロドス島聖ヨハネ騎士団ヴェネツィア共和国の連合軍がオスマン帝国に敗北する。

ドイツ農民戦争1524年 - 1525年)。

1525年2月24日パヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世は捕虜となり、マドリード幽閉される。1526年、捕虜となっていたフランソワ1世はカール5世とマドリード条約を締結することを余儀なくされ[4]、釈放される代わりにイタリア、フランドルブルゴーニュへの請求を全て取り下げた。
コニャック同盟戦争(1526年 - 1529年)詳細は「コニャック同盟戦争」および「貴婦人の和約」を参照

1526年5月22日、教皇クレメンス7世は神聖ローマ帝国の勢力の増大を憂慮し、コニャック同盟を結成する[4]。同盟の成員は教皇領、フランス王国[5]、イングランド王国、ヴェネツィア共和国フィレンツェ共和国ミラノ公国だった。1527年、コニャック同盟に報復のため神聖ローマ皇帝軍がローマを攻める(ローマ略奪)。ローマは蹂躙され、教皇庁は屈服する。一方、ローマ略奪の報が伝わると、フィレンツェからメディチ家が追放される。1529年、ジェノヴァがカール5世の支援を受け、フランスの支配下を脱する。ボローニャにイタリア諸国(メディチ家追放中のフィレンツェを除く)が集まり、カール5世に服することを決める。


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