イタリアの軍事史
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オドアケルを頭領としたヘルール族の軍勢がロムルス・アウグストゥルスを退位させたが暗殺され、次いでテオドリック率いる東ゴート王国軍が全土を支配した。両者は東ローマ帝国(中世ローマ)の庇護を受けていたが、東ゴートもベリサリウス率いるローマ軍に滅ぼされ、ラヴェンナ総督領(en:Exarchate_of_Ravenna)が成立した。東ローマの支配権もやがてランゴバルト軍の侵入に崩されたが、東ゴートやヘルール族と違って頑強な抵抗を続けた東ローマ領を、ランゴバルト族は完全に征服できなかった。

ランゴバルトはローマやヘルール、東ゴート、東ローマのようにイタリアの完全掌握には失敗したものの、南北の大部分を統合するランゴバルト王国を樹立した。一方、ラヴェンナ総督領は中西部のローマ公国、南西部のナポリ公国、南端部のアプリア・カラブリア公国へと分化した。ランゴバルト王国軍は残された領地を巡って東ローマ軍と争ったが、ブルグント王国を巡る戦いでフランク王国と敵対する過ちを冒し、サヴォイアなど一部領土を失った。その後は再び体勢を立て直したものの、774年にシャルル・マーニュ率いるフランク軍に敗退して滅亡した。だがフランク軍もまたランゴバルトを駆逐しきれず、南部のランゴバルト王国領はベネウェント公国として残り、東ローマ系の公国も残っていた事から複雑な勢力図が生み出された。加えて地中海で猛威を揮っていたアラブ人(サラセン人)の海賊によってサルデーニャコルシカが攻め落とされ、更にはシチリア島には北アフリカのアグラブ朝軍がシチリア首長国を打ち立てた。

フランク王国は北イタリアの征服をもって南欧での戦いを切り上げて中欧における帝国建設を進め、フランク帝国を建国した。北イタリアはその一部として一応の安定を見る事となった。またローマ・アラブ・ランゴバルトの三つ巴となっていた南部は、ノルマン騎士ロベール・ギスカールによる南部本土の統一、及びその末裔ロドヴィコのシチリア遠征の成功によりシチリア王国として統合された。中部は教皇領としてカトリック教会に庇護され、中立の土地として安定を獲得している。

各地域が一定の安定を見た後はフランク帝国の崩壊を経て、フランク帝国の後裔を自称する神聖ローマ帝国とこれに対抗するローマ教会の対立が主な出来事となった。神聖ローマ帝国はイタリア政策と称して幾度と無くイタリアへの遠征を繰り返し、その度に北イタリアの諸侯・諸都市は教皇派と皇帝派に分かれて戦った。だが1176年5月のロンバルディア同盟に対する敗戦など失敗が続き、最終的に神聖ローマ帝国は北イタリアでの権威すら失った。教皇派の勝利によってジェノヴァヴェネツィアフィレンツェといった共和制国家やミラノ公国などの諸侯が成立、北イタリア情勢も群雄の時代へと変化した。一方、南部では王朝の交代を経てトリナクリア王国ナポリ王国という二つの王国へ分離したが、北部ほどの騒乱は起きなかった。

神聖ローマの敗北と、百年戦争による欧州中央部での大乱は中世後期のイタリア地方が比較的に平穏な時代を過ごすことを許した。
近世セミナーラの戦いフォルノーヴォの戦い
イタリア戦争(1494年 - 1504年)詳細は「イタリア戦争」を参照
第一次イタリア戦争詳細は「第一次イタリア戦争」を参照

近世ルネッサンスを迎えたイタリアは5つの大国に集約されつつあり、この五大国によって結ばれたローディの和約によって対外的な平和を実現した。しかし1494年、イタリア戦争の始まりによって再び混迷の時代を迎えた。ミラノ公国のルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)は和平を実現した父に対して、権力闘争の為に諸外国をイタリア情勢へと引き込む愚を冒した。ナポリ王位に対する継承権を主張していたフランス王シャルル8世を懐柔したルドヴィコは、対立していたナポリ王国へフランス軍を嗾ける事に成功した。

平穏の中で戦術的な進化が遅れていたナポリ軍はセミナーラの戦いなどでフランス軍に苦戦を強いられ、シャルル8世はナポリ王位を奪い取る事に成功した。だがイタリア諸侯の反仏感情が高まる中でヴェネツィア軍と教皇軍が助け舟を出し、ナポリ・ヴェネツィア・教皇領の反仏同盟が結成された。そして同盟にカスティーリャアラゴン連合と神聖ローマ、それにミラノが助力を申し出た事で反仏包囲が完成した。1495年、包囲の危機に晒されたシャルル8世はフォルノーヴォの戦いを経て、命からがらイタリアから脱出した。勝利を得たイタリア諸侯に対し、シャルル8世は屈辱を味わったままに事故死したが、この戦いは戦争の始まりに過ぎなかった。
第二次イタリア戦争詳細は「第二次イタリア戦争」を参照

シャルル8世の親族でヴィスコンティ家の縁戚でもあるルイ12世が新たに国王に即位すると、1499年に第二次遠征が開始された。ルイ12世はヴィスコンティ家の復位と称してルドヴィコ・スフォルツァを幽閉してミラノ公国を占領した。さらにトリナクリア王国を領有する立場からナポリ王国への野心を抱いていたカスティーリャ=アラゴン王国にナポリ分割を打診、ナポリ王国を挟撃することで滅ぼした。

しかし元から全土占領を考えていたカスティーリャ・アラゴン側は北進を開始、フランス軍はチェリニョーラの戦いガリリャーノ川の戦いで立て続けに敗北し、再びイタリアから敗走した。
カンブレー同盟戦争(1508年 - 1516年)詳細は「カンブレー同盟戦争」を参照

第二次イタリア戦争から数年が経過した1508年、ヴェネツィアのロマーニャ占領に端を発する新しい対立が生まれていた。教皇ユリウス2世の号令によってフランス・カスティーリャ=アラゴン・神聖ローマ・教皇領が一堂に会する同盟が結成された(カンブレー同盟)。アドリア沿岸部の分割を目指す同盟軍を前に、ヴェネツィア共和国は単独で立ち向かわなければならない状況に置かれた[19]ラヴェンナの戦い

カンブレー同盟戦争は戦う陣営が時期によって大きく変動する不安定な戦争であった。まずは二度に亘る敗戦という汚名の晴らさんとするフランス軍の第三次遠征が開始、ヴェネツィア軍はアニャデッロの戦いに破れ、大部分の内陸領が失われた。しかしロマーニャ領有を巡る論争からユリウス2世がヴェネツィアと同盟を結んでフランス軍の梯子を外すと[20]、神聖ローマやカスティーリャ=アラゴン、更にはイギリスも呼応して新たに神聖同盟が結成、フランスは再び孤立に追い込まれた[21]。フランス軍はミラノ公国をスイス傭兵隊を率いるマッシミリアーノ・スフォルツァ(ルドヴィコ・スフォルツァの嫡男)に委ねるとラヴェンナに進軍した同盟軍と相対した(ラヴェンナの戦い)。戦闘ではフランス軍が優勢を維持していたものの、指揮官ガストン・ド・フォワの戦死などが響いてラヴェンナは陥落、フランス軍は三度イタリアから退却した。

しかし1512年、今度は神聖同盟軍の側で領地分配に関する議論で仲違いが起き、更にヴェネツィアがフランスと単独講和を結んだ事で同盟は瓦解した。ヴェネツィアはロンバルディア分割を取り決めて内陸領を奪還した[22]。1513年、フランス軍はミラノ公国を再度没収すべく軍を進めたが、ノヴァーラの戦いでマッシミリアーノを守るスイス傭兵隊に敗北した。以後、フランスは数度に亘ってミラノ攻略に失敗し続けたが、フランソワ1世の代に漸くマリニャーノの戦いでマッシミリアーノを追放することができた。これで北イタリアはフランスとヴェネツィアが分割する状態となった[23]
イタリア戦争(1521年 - 1559年)詳細は「第三次イタリア戦争」、「第四次イタリア戦争」、「第五次イタリア戦争」、「第六次イタリア戦争」、および「第七次イタリア戦争」を参照
第三次イタリア戦争ビコッカの戦い

1519年、神聖ローマ皇帝にカスティーリャ=アラゴン王位を持つカール5世が即位すると、ハプスブルク王朝の大帝国が西欧に出現する事となった。危機感を強めたフランスはヴェネツィアとの同盟を維持しつつ、教皇とイングランド王の支持を得たハプスブルク王朝の大領土に対抗する動きを見せた。教皇軍がミラノを占領してスフォルツァ家を復位させる事態に、フランス軍は教皇軍の傭兵隊長(コンドッティエーレ)プロスペル・コロンナ、及びフランチェスコ・スフォルツァ(マッシミリアーノの弟)らが率いるミラノ軍に攻撃を仕掛けた。フランス軍は本国兵・傭兵を含めて3万名を超えていたとされるが、フランチェスコによって召集された6000名の兵士(殆どがミラノ領内で召集された)に敗れ去った(ビコッカの戦い)。フランス軍はミラノ公国から敗走して本国へと撤収した[24]


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