イタリアの歴史
[Wikipedia|▼Menu]
青銅器時代になるとイタリック語派を話すハプログループR1b (Y染色体)の集団が到達した[6]
古代「古代ローマ」も参照
ローマ前史

紀元前8世紀ローマの建設以前のイタリアの状況について判明していることは少ない。イタリア民族が、紀元前8世紀頃にラティウム平原に定住したが、直後に小アジアからやってきたエトルリア人が彼らを征服した。イタリア半島の住人にはエトルリア人がいた。

紀元前6世紀にイタリア民族の中のラテン人からエトルリア人への反乱が起こり、共和政が樹立された。ローマと同じ頃、ギリシャ人が「マグナ・グラエキア」と呼ばれるイタリア半島の先端やシチリア島など地域に移住し、のちに重要な都市となるシラクサやタレントゥム(現在のターラント)を建設した。その他にも、現在のラツィオ州にいたスパルタからの移民ともいわれるサビニ人、またイタリア南部の山岳地帯、特にカンパニアモリーゼにいたサムニウム人、さらにオスキー人やウンブリア人がいた。
王政から共和政へ『カピトリヌスの雌狼』
狼の乳を吸うロームルスレムス

伝承によると、ローマ人トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアースらの子孫とされ、紀元前753年に同じくその子孫であるロームルスレムスの兄弟によって建設された。古代ローマでは、アイネイアースが、トロイア滅亡後、音楽医学貿易政治システムを持って、イタリア半島に逃れて、古代ローマを建国したという物語は、古代ローマ古代ギリシアの歴史とつながる長い連続と価値づけられ、非常に重要と考えられていた[7]。ロームルスが初代ローマ王となって以降、7代の王が王政によって統治されていたが(王政ローマ)、紀元前509年タルクィニウス・スペルブスが追放され王政は終焉、共和政ローマが成立した。

当時の共和政には二つの統治組織があった。一つは「パトリキ」と呼ばれる貴族の有力者や政治家たちによって構成される元老院で、もう一つは「プレブス」と呼ばれる平民階級で富裕な市民が中心となって運営される市民集会(民会)であった。貴族と平民の間の対立や紛争は共和政の重要な政治的問題となっていたが、元老院はいくつか譲歩をしながら、常にうまく乗り切っていた。
対外戦争による領土拡大

続く数世紀の間、ローマは領土の拡張政策をとり始め、ウェイイの町やラテン人、サムニウム人の同盟を次々と打ち負かしていった。

ローマは戦争に勝利した後もたいていは敗者を完全に服従させようとはせず、ローマの優位性を受け入れさせ、ローマを構成する同盟国として扱った。この賢明なやり方がローマが拡大できた理由の一つとなっている。たとえば、トスカーナカンパニアにあったエトルリア人やギリシャ人の弱小都市は、ローマに立ち向かって戦争するよりも、ローマの保護を求める方を選んでいる。

紀元前390年には、ガリア人として知られるケルト人によってローマは侵入され、略奪された。

紀元前280年から紀元前272年にかけて、ギリシャ人の都市タレントゥムとの戦いに勝利したローマはイタリア半島を実質的に統一した。そして、最も危険な敵であったフェニキア人の植民都市カルタゴ(現在のチュニス近く)と対決することとなった。アルプス山脈を越えるカルタゴハンニバル・バルカ

紀元前3世紀半ばからほぼ1世紀を通じて戦われた3度のポエニ戦争は、ローマの完全な勝利に終わった。第一次ポエニ戦争紀元前264年-紀元前241年)と第二次ポエニ戦争紀元前218年-紀元前202年)により、カルタゴはシチリア島サルデーニャ島コルシカ島ヒスパニアの植民都市などほとんどの領土を失い、第三次ポエニ戦争紀元前149年-紀元前146年)に敗北して都市は破壊された。

紀元前2世紀には、ローマは西地中海一帯のほとんどを支配するようになり、その影響力は急速に東方へと及び始めていた。紀元前1世紀、ローマはヘレニズムの流れを持ったアンティゴノス朝セレウコス朝を滅ぼし、全地中海の覇者となった。
内乱の一世紀

ローマ共和国の統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのに相応しい物ではなかった。元老院は領土が拡大される度に制度改良を行い諸問題に対処してきたが、大本が都市規模の国家を統治するためのシステムである以上、そうした改革にも限界があった。それゆえローマ領内において様々な歪が生じ始めたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で答えた。紀元前139年にローマを揺るがす大反乱が発生(シチリア島奴隷反乱)、騒乱自体は無事鎮圧されたものの、ローマにおける共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。この腐敗した共和政を改革するべくティベリウス・グラックス護民官として制度改革を推進するが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者達と共に非業の死を遂げる。紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウスもまた元老院と対立し失脚、数千人と言われる支持者達も処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫は共和政ローマの混迷を決定的なものとし、これにより内乱の一世紀が始まる。ガイウス・マリウス

その後、軍人出身の執政官ガイウス・マリウスは上述の「歪」の一つである軍の弱体化と自作農の没落に対処すべく軍制改革(詳細はマリウスの軍制改革を参照)を行ない、軍の質的向上と失業農民の雇用確保に成功。またマリウスは自らの改革により精強さを取り戻したローマ共和国軍を率い、ゲルマニアからローマ領内へ侵入したゲルマン人の軍勢に大勝(キンブリ・テウトニ戦争)するなど、ローマの国防力再建に成果を挙げた。しかし軍内部でイタリアの同盟市民とローマ市民との待遇差が消えたため、彼らは同じローマを構成する住民として市民権の付与を求め始めるようになり、これを既得権益が失われると考えた元老院とローマ市民が拒絶したことで同盟市の大反乱を引き起こすことになる(同盟市戦争)。更に軍を構成する兵士が市民兵から職業軍人へ変化したことで軍からは世俗性が失われ、次第に議会や民衆よりも直近の上司である将軍達に忠誠心を抱くようになり、これは後に起きる内乱の一端となる。

紀元前88年、ついにローマ国内での内部対立はオプティマテス(閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラポプラレス(民衆派)のガイウス・マリウスの軍事的衝突という内戦状態に発展し、ローマの混迷は頂点に達する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:131 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef