イタリアの映画
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ヴィットリオ・ガスマンマルチェロ・マストロヤンニウーゴ・トニャッツィクラウディア・カルディナーレモニカ・ヴィッティニーノ・マンフレディなどはコメディ映画に出演して有名になった。
マカロニ・ウェスタン詳細は「マカロニ・ウェスタン」を参照

同じ時期、「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれるジャンルの作品が、イタリアだけでなく全世界で人気を集めるようになる。マカロニ・ウェスタンは従来の西部劇と違い、イタリアで低予算で製作され、ユニークで鮮明な撮影技術が特徴であった。

最も有名なマカロニ・ウェスタンは、セルジオ・レオーネの作品で、レオーネはクリント・イーストウッド主演、エンニオ・モリコーネ音楽の『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン』の3部作を監督した。この3部作はレオーネが1968年に監督した『ウエスタン』と共に、このジャンルを定義するものとなった。

マカロニ・ウェスタンにはまた、伝統的な西部劇と「イタリア式コメディ」とが融合した作品も多かった。そのような作品にはテレンス・ヒルバッド・スペンサー主演の『風来坊/花と夕日とライフルと…(イタリア語版)』(1970年)とその続編の『風来坊 II/ザ・アウトロー(イタリア語版)』(1971年)などがある。
イタリア製ホラー

イタリア文学・映画には「ジャッロ Giallo」(通常は複数形Gialli)というジャンルがある。これはホラーや犯罪ものなどを含み、エロティシズムも加味されているジャンルである。「ジャッロ」とはイタリア語で「黄色」を意味し、ペーパーバック小説の表紙が黄色であったことからきている。

1960年代から1970年代にかけて、マリオ・バーヴァリカルド・フレーダアンソニー・M・ドーソンダリオ・アルジェントといったイタリア人監督が「ジャッロ」に含まれるホラーというジャンルを発達させていき、これらの作品は海外にも影響を与えるようになっていった。代表的な作品には『血ぬられた墓標』、『幽霊屋敷の蛇淫』、『歓びの毒牙』、『サスペリア』、『サスペリアPART2』などがある。

グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』に代表される、1960年代に流行したショッキングなモンド映画にはじまり、1970年代後半から1980年代初期にかけて、イタリア映画は暴力的なホラー映画で代表されるようになっていった。そういった作品は主にビデオ発売が目的で、ルチオ・フルチジョー・ダマトウンベルト・レンツィルッジェロ・デオダートといった監督たちの作品が有名である。
1980年代の危機

1970年代終わりから1980年代半ばにかけて、イタリア映画界は長い停滞期に陥った。この時期、「アート・フィルム」と呼ばれる作品は高い評価を得ていたが、イタリア映画界の中では主流から孤立した存在となっていった。

そういった作品にはフェデリコ・フェリーニの『女の都』、『そして船は行く』、『ジンジャーとフレッド』、エルマンノ・オルミの『聖なる酔っぱらいの伝説』、タヴィアーニ兄弟の『サン★ロレンツォの夜』、ミケランジェロ・アントニオーニの『ある女の存在証明』、ナンニ・モレッティの『僕のビアンカ』、『ジュリオの当惑』などがある。100%イタリア映画ではないが、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』は9つのオスカーを受賞し、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』も高い評価を得た。

同じ時期、「トラッシュ trash」と呼ばれるジャンルがイタリア大衆の間で人気を博していた。芸術的な価値はほとんどなかったものの、世間でタブーとされている事柄、特に性に関する事柄を取り上げたコメディはヒットした。リノ・バンフィディエゴ・アバタントゥオーノバーバラ・ブーシェエドウィジュ・フェネシュといった俳優たちはこういった作品に出演して人気を集めた。
1990年以降

1980年代終わり以降、新しい世代の映画監督たちがイタリア映画の復興に一役買っている。 1990年、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』が第63回アカデミー賞アカデミー外国語映画賞を受賞。1998年にはロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』が第71回アカデミー賞でアカデミー外国語映画賞、主演男優賞第51回カンヌ国際映画祭でも審査員特別グランプリを受賞し、イタリア映画の復活は確実なものとなった。


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