イタリアのエジプト侵攻
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^ 第7機甲師団はマトルーフへ撤退し、その後を第7支援群が前線においてイタリア軍の侵攻を遅らせ、その状況を監視する任務を引き継いだ[3]。侵攻に対応した部隊は、キングス・ロイヤル・ライフル軍団第1大隊、ロイヤル・ノーサンバーランド・フュージリアーズ第1大隊、第1王立戦車連隊、ライフル旅団第2大隊、コールドストリームガーズ第3大隊、第11軽騎兵隊、自由フランス軍海兵隊1個機械化中隊及び王立騎馬砲兵 (en) の砲兵部隊だった[11]。チャーチルによれば、イギリス軍の防衛部隊は歩兵3個大隊、戦車1個大隊、砲兵3個中隊及び装甲車2個中隊で編制されていた[9][10]
^ チャーチルによれば、イギリス軍の死傷者は40名でイタリア軍の死傷者はその約10倍であり、150輌の車両が含まれていた[13][14]
^ 英国・エジプト優先同盟条約とも表記される[21]
^ 「西方砂漠軍」の訳語は、山崎 (2009)、p.196 による。
^ 「ジョック戦列」の訳語は平井訳、ムーアヘッド (1977)、pp.158-159. による。
^ 「リビア兵団」の訳語は『北アフリカ戦線』 (2009)、p.15 による。
^ 「マレッティ戦闘団」の訳語は『北アフリカ戦線』 (2009)、p.15 による。
^ ブレダの表記は吉川和篤・山野治夫 (2006)、pp.164-165., 170-171. による。
^ カプロニの表記は吉川和篤・山野治夫 (2006)、pp.210-211. による。
^ 石油備蓄が8か月しかなく、ドイツからの輸入も滞っていた[34]
^ 「中東方面軍」の訳語は「平井訳、ムーアヘッド (1977)、p. 130」及び「『北アフリカ戦線』 (2009)、p.48」による。
^ 戦闘が開始された時でも、彼には完全な部隊は無く、装備や火砲も不足していた。その戦力はニュージーランド第2師団(1個歩兵旅団、騎兵連隊(欠けた部隊があった)、機関銃大隊及び野戦砲兵連隊)、兵力の欠けていたインド第4歩兵師団(2個歩兵旅団及び砲兵部隊の一部)、第7機甲師団(通常3個戦車連隊で編成されるところを2個戦車連隊となっていた機甲旅団が2個)及び14個独立歩兵大隊だった[35]
^ この頃、8月5日にローマでムッソリーニ、バドリオ及びグラッツィアーニ3者会談が行なわれ、グラッツィアーニから開始時期が明言されなかったものの侵攻計画が説明されていた[39] 。また、8月11日にグラッツィアーニは、軍の威信保持を目的とした小規模な攻撃のみ可能とする、現地の状況確認の結果をローマに提出していた[39]
^ 数日前に1か月の延期を申し入れたが、他の者に代わらせると言われていた[10]

出典^ a b c d e Macksey, p. 35
^ a b c d Macksey, p. 47
^ a b c d Playfair (2004), p. 205
^ a b Wavell, p. 3001
^ a b Walker (2003) p.62
^ a b c Hunt, p. 51
^ Bauer (2000), p.95
^ Bauer (2000), p.113
^ a b Churchill, p. 415
^ a b c d 佐藤訳、チャーチル (2001)、p.254
^ Playfair, pp. 209-211.
^ a b Fox, Jim. “ ⇒World War II's Opening Salvoes in North Africa”. touregypt.net Egypt feature story. 2008年12月8日閲覧。
^ a b Churchill. p. 416
^ a b 佐藤訳、チャーチル (2001)、p.255
^ Playfair, p. 109
^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.9-10.
^ Playfair, p. 121
^ a b c 鳥井 (1993)、p.418

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