革命が勝利して暫定政権を成立させると、暫定首相となったバーザルガーンをはじめヤドッラー・サハービー、キャティーラーイー、ハーッジセイイェド・ジャヴァーディー、ガラニーが政府および軍に異動。その欠員を埋めるため、ハサン・ハビービー(英語版)、エッザトッラー・サハービー(英語版)、アッバース・シェイバーニー(ペルシア語版)、アボルハサン・バニーサドル、サーデグ・ゴトブザーデ(英語版)を選出して革命評議会員としている。のちにモタッハリーが暗殺されると、さらにミール・ホセイン・ムーサヴィー、アフマド・ジャラーリー、ハビーボッラー・ペイマーン(英語版)が補充される一方、マスウーディーが行政府へ異動している。
その他逐次的に構成員に変動が見られ、解散時に評議会員であったのは、ベヘシュティー、ハーメネイー、ムーサヴィー・アルダビーリー、バーホナル、ハーシェミー・ラフサンジャーニー、ハビービー、シェイバーニー、バーザルガーン、エッザトッラー・サハービー、ゴトブザーデ、アリーアクバル・モイーンファル(ペルシア語版)、バニーサドルである。 初代評議会議長はモルテザー・モタッハリーであったが、1979年5月1日夜、フォルガーン団
議長
#氏名写真生年 - 没年就任退任党派 ホメイニーの帰国当初、革命評議会で審議された重要な案件としては、政府の設立、国会の設立、憲法起草専門家会議の設立などがあった。 政府設立について評議会は、バーザルガーンを暫定政府首相として提案し、ホメイニーもバーザルガーンを任命している。1979年2月11日の革命成就により革命評議会と暫定政府はホメイニーの指導と人々の支持による正当性により政権を握った。 第二に諸都市において革命を防衛し反革命に対処する「イスラーム革命臨時委員会」の設置がある。マフダヴィー・キャニーがイスラーム革命中央委員会の監督として派遣された。 ほかに評議会の承認による重要な案件に、イスラム革命防衛隊規約の承認(1979年4月22日)、反革命に対する裁判・処刑を担当する革命裁判所の設置[14](1979年4月)、銀行国有化、左派組織への大学からの退出を求める最後通牒(1980年4月)[15]、イスラーム革命体制についての国民投票施行、憲法草案の検討と新聞での同案の発表、地方評議会法の承認、大規模産業の国有化の認可、専門家会議規約の承認、共和国大統領選挙の施行、マジュレス(国会)議員選挙の施行などがある。 以上のように、革命後の体制確立とそれにともなう法の制定、国家機関の整備など統治体制の研究・実施が革命評議会の任務であったが、各議員間に完全な一致があったわけではない。バニーサドル、エブラーヒーム・ヤズディー 1979年11月4日、イランアメリカ大使館人質事件が発生。翌日、バーザルガーン暫定政権はホメイニーに辞表を提出した。革命評議会は国民に向けて重大声明を発し、憲法に関する住民投票および国会選挙、大統領選挙の施行までの限られた期間、施政担当を決定したと述べている。この声明に続いて政府が評議会に統合されるとともに評議会の構成を更新、新メンバーが選出された。行政は以下のように分掌された。
1モルタザー・モタッハリー1920年 ? 1979年1979年1月12日1979年5月1日テヘランの闘うウラマー協会(英語版)
2マフムード・ターレガーニー1911年 ? 1979年1979年5月1日1979年9月9日イラン自由運動(英語版)
3アボルハサン・バニーサドル1933年 -1979年9月9日1980年2月11日無所属
革命評議会の活動
革命評議会政権
教育省
逓信省(英語版) - ?
情報省(英語版) - 未設置
財務省(英語版) - アルダラーン(ペルシア語版)、バニーサドル
外務省(英語版) - バニーサドル、ゴトブザーデ
商務省(英語版) - レザー・サドル
保健省(英語版) - ?
鉱業省(英語版) - ?
農業省(英語版) - アッバース・シェイバーニー
法務省(英語版) - マフダヴィー・キャニー
国防省(英語版) - ハーメネイー
交通省(英語版) - モハンマド・ユースフ・ターヘル・ガズヴィーニー